夕立が来たら別れましょう

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婚姻届を出す時、私は初めて知った旦那さんの名前は「白井仁史」というなんだか薄味の名前だった。 名前通り、彼は淡白な性格で、服装はカッターにセーターにチノパンとまだ若いのに色気のない質素な格好をしていた。 仕事は大学教授をしており、国文学を教えている。 彼は文学を学んでいるにもかかわらず、人としてのコミュニケーション力が足りないのか、気のきいたことは言ってくれないし、何言ってるかわからないことはしょっちゅうだし、押しに弱いし、男としてのプライド的なものは…私より断然低い。 ただ、雨の名前をたくさん知ってることろが好きだった。 「しぐれさん。今日は酒涙雨(さいるいう)ですよ」 休みの日、窓ガラスを伝い輝く雫や、光と雲が混ざりあった空を見ながら、彼はそう言った。 「何それ?」 「七夕に降る雨のことですよ。 彦星と織姫が別れる時に流す涙なんだそうですよ」 私は昼間からビールを煽り、彼の背中をぼんやりと見ながら、返事をする。 「しぐれさん。今日は半夏雨ですよ 「しぐれさん、今日は秋小雨ですよ」 私達は新婚にも関わらず、頬を赤らめる出来事など一切、静かな毎日。 しかし、なんで結婚したんだろ? と後悔することは不思議となかった。 けど、無理矢理に結婚したし、彼の初めてをたくさん奪った女を、彼はどう思っているのだろう? いつの間にか空を見上げる機会が多くなった私はそう思う。 いや、でも、このままずっと一緒にいてくれるのでは? と、結婚して半年たった冬にそう思った。 まぁ、そうだ。そうに違いない。だって、こんなにもうまくいっているのだから!! そう思うと、山茶花ちらし(さざんかたらし)が降る寒い雨の日にも関わらず、私は急に浮かれ調子に乗って、「教授の奥様」というのをやるべく、大学へと潜入を試みた。 そうだ。どうせなら、彼の講義もちょっと除いてみよう。 と思い立ち、どう見ても、20代には見えないから、マスクをして、コートを口元まで持ち上げて、こっそりと教室へと忍び込むんだ。 「これは何ですか?」 静かにドアを開けると、冷たい声とぴりついた空気が流れてきた。 この声は、まさか…旦那さん? 私は息を殺して、その声の続きを待った。 「すみません」 生徒らしき若い男の子の泣きそうな声が聞こえてくる。 鼻から上だけ机からだして、私は膝を抱えながら、ペンギンのようにヨチヨチと歩き、私はなんとか、席に着いた。 坂状の講義室の一番低いところに、旦那さんと、頭を下げる生徒がいる。 「約束しましたよね?必ず、今日提出すると」 「はい」 「では、この白紙は何ですか?」 旦那さんは、何も書かれていない真っ白なノートを叩き、生徒に突きつける。そして、盛大なため息をついた。 「いいですか?みなさんもよく聞いてください。 約束は絶対に守らなくてはいけません。 鶴の恩返し、浦島太郎、雪女から紐解かれる教訓は全て『約束を守る』ということです。 昔は、録音機能のついた機械や、契約を交わすための書面などが、用意できないことが大変多くありました。 そのため、人を裏切ることは、自分も裏切られてもいいと宣言することと同じだったのです。 僕は必ず約束を守りますが、みなさんは、すぐに連絡を取れる手段があるからと言って、簡単にドタキャンをしていませんか?約束を反故にしていませんか? また今度と大切な用件を後回しにしていませんか?」 教室に彼の声だけが響いたあと、誰もが俯き、口を閉ざしている。 残ったのは、寒の雨の音だけ。 「それと、時間を守るのも約束の一つですよ。さっき来たコートの人。あなたに出席点はありません」 ぴしゃりと言われて、私は思わず首をすくめた。 家を出る時のウキウキした気持ちはどこへやら。 私は一緒に食べようと思ったおやきを片手に大学のフリースペースに腰掛けて、窓を伝う雫を数えている。 『僕は約束を守る』 人としては正しいのだが、私にとっては非常に残酷な宣言だった。 私は今更ながら、彼のことを何も知らないのだと思った。 彼があんなに冷たい声を出すこと。 実は生徒に厳しいこと。 『約束を守る』ということに並々ならぬ、固執があること。 それと、私のことを『時雨』と呼ぶ理由も本当は知らない。 なんで、あんな約束しちゃったんだろ? 私はそれから、月の始まりにカレンダーを捲る手を止めてしまう癖ができた。カレンダーをめくっても捲らずとも、季節は移ろいゆくのに、ついつい躊躇ってしまうのだ。 「はぁぁぁー」 私は膝を抱えて、うずくまる。そこに、旦那さんのスリッパの音が近づいてきた。 「何やってるんですか?」 私を、恐る恐る覗き込む彼の肌の熱が感じられた。 「いいんです。気にしないで下さい。いや、気にしてください」 私が額を膝にぐっと押し込むようにして、丸く縮こまると、大きくて温かな手が私の頭を撫でた。 「じゃ、言えるようになったら、言ってくださいね。しぐれさん」 彼はそう言って、コーヒーの香りを残して行った。 私は少し顔をあげ、その背中を見送る。 私が始めたことなのに、終わりが見えるのが怖くて仕方ない。
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