その雨を、越えて

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「別に落ち込んでねえよ」  今の僕には、強がりを目いっぱい詰め込んだその言葉を返すのが精一杯だった。  すると坂下は驚いたように目を丸くする。 「え! マジで? 落ち込んでねえの? あんな凡エラーしたのに?」  首から上が、カッ、と熱くなるのが分かった。  何か言おうと思うが、感情が鼻先で渦巻いてうまく言葉が出てこない。  僕は坂下の目を睨みつけながら、ゆっくりと言葉を選んだ。 「あの1点は確かに僕の責任だ。 僕が歩かせて、僕がエラーした結果だ。 でもそれをわざわざここで蒸し返すなんて……お前って奴は」  そのあと何と言おうとしたか分からないが、僕の言葉はそこで途切れた。  しかしそれに代わって僕の口は、今までの坂下への恨みを次々と転がり出させる。 「僕はな、一年の夏、お前とバッテリーを組めって言われたときは本当に嫌だったんだ。 頭が良くて、冷静で、どんな時でも感情的にならないで淡々とダメ出しをするお前が苦手だったんだよ」  僕にとっては激白と言っていい台詞を、坂下は顔色ひとつ変えずに聞いている。 「案の定お前は僕の投球だけじゃなく、牽制や守備にもどんどんダメ出しするようになった。 だから僕はお前に文句を言われないようにすることだけを考えて、常に気を遣って投げた。 しかもお前が投げるのをやめろって言うから、変化球の種類も減らしたんだ。 あんだけ練習したフォークも封印してな」  僕はそこまで喋ってから、傍らに置いてあったスポーツドリンクを飲み干した。  そこから少しの間があった。 「知ってたよ。 棚倉が俺のこと苦手だってのは」  その時の僕が坂下を見る顔は、きっとお化けでも見たような表情になっていただろう。  坂下は、すっ、と立ち上がると、ベンチの端にあるクーラーボックスからよく冷えたスポーツドリンクを2本取り出して僕の隣に座り、片方を無言で僕に手渡してきた。  ペットボトルの口を切りながら坂下が僕を見る。 「でも俺はお前のこと好きだぜ。 ああもちろん変な意味なんかじゃない。 ピッチャーとして、いや、野球選手として、か」  まるで自分に言い聞かせるようにそう言ってから、坂下は美味そうに半分ほどを空にした。  僕は単純に坂下の言葉の意味が分からなかった。  野球選手としての僕が好き?  あれだけ僕にダメ出ししておいて何だそれは?  僕が言葉を探している間に、坂下はもう次の台詞を話し始める。 「だって考えてもみろよ。 俺が指摘したことでお前が直さなかったことがあるか? 直球が走るから変化球はカーブとスライダーだけ練習すればいいって言ったら、どっちも本当にびっくりするぐらい曲がるようになったじゃねえか」  僕は思わず自分の右手を見た。  潰れて固くなったマメの跡が、飽きるほど握りを練習してきた証拠を無言で訴えている。 「それにな、お前が自信があるって言ってたフォーク。 あれは僧帽筋が弱いお前には向いてなかったし、フォームに癖があるからあんまり早い段階で投げさせたら他のチームに研究されて、球種を見抜かれる可能性があった。 だから止めさせたんだ」  僕の脳裏に、着替えのときに何故か背中や肩を触ってきた坂下の姿が甦る。 「でも今のお前は違う。 僧帽筋も広背筋も一年の頃とは雲泥の差だ。 それにこっそり鍛えてたんだろ? 体幹もバッチリでフォームが崩れなくなってる」  そう言って坂下はもういちど僕の肩を叩く。  雨の音に混じって、ばちん、という甲高い音がベンチに響いた。  僕はこの二年、部活が終わってから家で体幹トレーニングを続けてきた。  それもこれも坂下に文句を言わせないため。  そんな、誰にも話さずにひとりで打ち込んできた努力まで坂下に見抜かれていたことに、僕は少なからず動揺していた。 「フォーク、投げてみろよ」  いきなりの言葉に動揺が加速した僕は思わず、はあ? と坂下を睨んだ。  さすがに今の台詞はあまりにもバカにしている。  自分で禁止しておいて今さら投げろとは、いったいなんだと言うのだ。  僕は充分な間を空けてから反論した。 「投げるなって言ったのはお前だろ? だから僕はあれ以来フォークなんか練習してないんだぞ?」  坂下の顔がにやりと歪む。 「だから良いんだよ。 ここにきてはじめて投げれば、データにないんだから相手は絶対に打てやしない。 8回と9回、あとたった2回だけゼロで抑えてくれればこの試合、勝てる」 「いい加減なこと言うなよ!」  思わず出た大声に一瞬の静寂がベンチを包み、チームメイトの視線が一斉に僕を射抜く。  しかしそれはほんの少しの間だけで、みんなはそれぞれ空を見上げたり、元の会話に戻ったりしてゆく。  僕はみんなの視線が離れたのを確認してから、できるだけ感情を出さないようにゆっくりと坂下に語りかけた。 「なあ、一年半も実戦で投げていないフォークを投げろだと? そんな危険な賭け、誰がやるって言うんだ。 それにそもそもこの雨が止まない限り、僕たちはこのまま夏が終わるのを指をくわえて見てることしかできないんだぞ?」  言葉にすることで、自分のせいで夏が終わりかけているという現実がより一層自覚でき、僕の視界が少しだけ滲んだ。  しかし坂下の表情は真剣そのものだった。 「雨、止むよ」
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