その雨を、越えて

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 そのあっけらかんとした言葉に僕は耳を疑った。  それでも目の前の坊主頭は顔色ひとつ変えずに、なんなら少し笑ったように僕を見ている。 「止む、って、こんだけ降ってる雨がか? いくら頭が良いからって何でも分かるようなフリするなよ! お前は天気予報士かなんかなのか?」  最大限の皮肉を込めて放った言葉だったが、坂下は耳をこりこりと掻いただけで口を開く。 「天気予報士じゃなくて気象予報士な。 俺は違うけど、俺の親戚が気象予報士してる。 だからさっき電話して聞いたんだ、この雨は止むのか、って」  僕はまず天気予報士という単語が間違っていたことに驚いたが、それ以上に坂下の、止む、という言葉がにわかに信憑性を帯びたことに興味を奪われた。 「坂下、じゃ、じゃあその親戚の人は雨が止むって言ったんだな?」  坂下はにこりとして頷く。 「いつだ、いつ止むんだ? 試合は続けられるのか?」  僕は思わず身を乗り出していた。 「正確な時間は分からねえ。 でも俺が電話した時点では、上空の風が強まったから降り初めから30分ぐらいで雨雲が東に抜けるだろう、って言ってた」  坂下が僕のところに来てから10分ほど経っているから、降り始めからはすでに20分ほどが経過していることになる。  今は一面グレーに覆われている空が、あと10分やそこらで本当に晴れるのだろうか。  いや、頼む、お願いだから晴れてくれ!  僕のミスでみんなの夏を終わらせたくないんだ!  僕が祈るように両手を合わせて目を閉じると、坂下の低い声が聞こえた。 「棚倉、お前もしかして、自分のせいで負けてる、とか思ってねえよな?」  僕が目を開けると、ほんの少し眉間に皺の寄った坂下と目が合った。 「誰がどう見たって僕の責任だろ。 フォアボールで歩かせたのも僕、フライを落としたのも僕だ」  僕は焦る気持ちを隠すこともせず、早口で伝えた。  坂下は僕の言葉を最後まで聞いてから目を閉じ、それから長いため息をついた。 「今からお前に、高校生活最後のダメ出しするわ」  坂下の眉間の皺が深くなった。 「自惚れんなよ棚倉! こん中の誰がお前のせいだって考えてると思う? 誰もいねえよバカ野郎! お前が許したのは7回投げてたった1点だけだろうが! そもそもお前が頑張って投げてくれてる間に、俺たちが2点取ってりゃ良かっただけの話だろ!」  初めて見る坂下の剣幕に、僕をはじめ誰も口を挟む者はいなかった。 「それにあのフォアボールだって、相手が四番だからってビビっちまって、俺が無理やり内角に投げさせようとしたから起きたことだろ! 盗塁だって俺が二塁で刺してればそれで終わりだったんだ!」  坂下は僕のユニフォームの袖を掴みながら、真っ直ぐな目で僕を見ている。  僕は何か言い返そうと口を動かしたが、その勢いに押されて思うように言葉が出てこなかった。 「いいか、あの1点は確かにお前が絡んだ失点だ。 でもそれ以前に、みんなが点を取ってお前をもっと楽にしてなきゃいけなかったんだろうが。 自分だけのせいだなんて、ここにきてそんな悲しいこと言うなよ、棚倉」  そう言い終わると、坂下はがっくりとうなだれてしまった。  いま負けているのは、僕だけのせいじゃない。  そう言われても、この状況ではその言葉を飲み込んで消化することなんかできっこない。  それは、相手チームに逆転してはじめて意味をなす言葉なんじゃないか。  僕の中で疑問と複雑な思いがないまぜになって、ぐるぐると回っているようだった。 「仮に雨が止んで試合が再開されたとして、ここから勝てるっていう算段はあるのか?」  そう聞いた僕の目の前で、坂下が真顔になる。 「お前があと2回ゼロに抑えてくれたら勝てるって言ったよな? さっき雨が止むことを監督に伝えたとき、そのことも一緒に話したよ」  そう言うと坂下は監督に向き直り、よく通る声を響かせた。 「監督、さっき僕と話したこと、みんなにも教えてあげて下さい!」  監督は坂下の言葉ににやりと頷くと、軽く帽子に手をやってから話しはじめた。 「本当はもう少し雨が落ち着いてから話そうと思ったんだけどな。 端的に言うと、向こうのピッチャーはもうへばる一歩手前だ。 お前達のおかげでな」  監督は雨で向こうにこちらのやり取りが聞こえないのをいいことに、声のトーンをひとつ上げた。 「棚倉の球数が7回まで66球、対して向こうは毎回ランナーを出して、おまけにファールで粘られて既に105球ほうってる。 おかげであれだけ低めに集まってたストレートが、6回から上にバラけはじめた。 しかも奴さん、よっぽど自信があるのか初球はストレートが七割を超えてるときた!」  監督は意地悪そうな顔で、ひひっ、と笑う。 「データの上でも向こうはもう限界なんだよ。 だから初球、真ん中か高めのストレートに狙いを絞って思い切り振れば、必ず点は入る。 あとは棚倉がうまいこと打線を抑えてくれれば勝てるんだ! さあ止んでくれよ、雨!」  そう言いながら監督は縋るように空を見上げ、強く両手を合わせる。  それからベンチを一瞥して息を吸い込むと 「ほら、お前達もやるんだよ!」  監督が飛ばした檄に、ベンチの全員が手を合わせて空を見上げた。  限界近くまで投げ込んだピッチャーが、わずか30分程度の休憩でそう簡単に回復はしないということを、僕は身をもって知っている。  それにしても、監督と坂下は向こうのピッチャーの癖や肩の状態まで把握していたとは、なんと恐ろしいことか。  しかし彼らの言葉通りだとすると、次の回には必ずチャンスが巡ってくる。  この雨さえ止めば、僕たちの夏はまだ続くかもしれないのだ。 「棚倉、あいつら見てみろ」  坂下が顎で向かいのベンチを指す。  僕の視線の先では選手も監督もみな、雨天コールドが決まったかのような笑顔で空を見上げている。 「あいつらこれから雨が上がることも、自分たちがピンチだってことも知らねえんだぜ。 それになんてったってお前のフォークも知らねえ。 あと20分後のあいつら、同じように笑ってられるかなあ」  驚くほど意地悪な顔の坂下が僕を見つめていた。  僕は思わず吹き出したが、努めて真面目に答える。 「それもこれも、僕が抑えれば、の話だろ? そのためのフォークのサイン、今から決めとかないとダメなんじゃないのか?」  坂下は嬉しそうに頷くと、右手をグーの状態にしてから思い切り親指を立ててみせた。 「いいか棚倉、これがフォークのサインだ。 見逃すんじゃねえぞ?」  僕は小さく頷いて、同じサインを作る。  その手をゆっくりと伸ばし、坂下のそれとぶつけてから固く手を握った。 「まだ夏は終わらせねえからな、覚悟しとけよ」  坂下の言葉に僕は鼻で笑う。 「それはこっちの台詞だっての。 せいぜいもう少し相棒でいてくれよな」  僕たちは初めてバッテリーを組んだ時と同じように、互いの手を、ぱあん! と弾いて笑った。  そうだ、そう簡単に終わらせるものか。  僕たちはもっと先に行く。  今まで越えられなかった県ベスト4の壁を越えて、まだまだその先へ。  いつも正しくて冷静で、でも熱くてカッコいい、くそ頭にくる相棒と一緒に。  僕は帽子を深く被り、西の空に目をやる。  雨のカーテンの向こうに、ほの青い光が差し込んでいるのが見えた。  さあ、もうすぐ大逆転の後半戦がはじまる。
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