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プロローグ
小学校、何年生だったか覚えていない。通学路から外れた川のそばを歩いていた時、雨が降ってきた。
橙の光に雨は煌めいていた。急激な気温の低下で、日焼けした僕の腕に鳥肌が立った。
あの雨は気温だけではなく、有り余っていた元気を奪っていき、当時は感じたことのない寂しさを僕に与えた。今から思い返せば、あれは郷愁に似ていた。日頃通らない道が激しい雨にさらされ、夕焼けに燃やされている景色は異界のようだった。
すぐに帰りたかったが、僕の足は動かなかった。
一目見ただけでは、それがなんなのかわからなかった。大きなクスノキのの根元に毛むくじゃらの何かが落ちていた。薄汚れた雑巾だと思った。けれど、それはぷるぷると震えていた。
生きている。猫だとわかったけれど小さすぎる。
震えを止めようと思って両手で触れると、驚いて身体が大きく跳ねたが逃げなかった。
血が、猫から流れ込んでくるようだった。胸から溢れそうなほどの血を、心臓が忙しく全身に送り出している。この猫をどうしたらいいか考えられるほど冷静になれなかったし、たとえ考えられたとしても小学生の経験では正しい対処はできなかっただろう。
どうしようかオロオロしている時に、声が聞こえた。
「粟井くん、傘を貸そう」
急に夜が来たみたいに、大きな影が僕と猫にかかった。
名前を呼ばれたので振り返ると、夕日に照らされた影のように背の高い男が立っていた。こんなに大きな人は知り合いにいない。
「……おにいちゃん、だれ?」
黒い服を着ていて、本当に僕の影が化けたのかと恐ろしくなったが、優しげなタレ気味の目が微笑んで細まった。その顔が通学路を見守っている地蔵が連想させて、恐怖心が消えた。
「そうか……ようやく粟井くんと初対面になれたんだね。今日は記念すべき日だ」
言っている意味がよく分からず、僕は黙るしかなかった。
「初めまして。自己紹介をしたいところだけれど、まだ君に名乗るわけにはいかないんだ。僕のことは『夕立さん』と呼んでくれればいい」
夕立さんは大きな黒い傘を渡してくれた。小さな穴がいくつも開いていて、雨を全部防ぐことはできなかったけど、漏れてくる光が星のようで綺麗だと思った。
夕立さんは傘を貸してくれただけで、猫に関して何の助言もくれないまま、いつの間にかいなくなっていた。夕立さんがいなくなっているのに気づかないほど僕は手のひらで一生懸命に猫を温め続けた。
本当の夜が来たら猫の顔が上がり、二つの小さな月が爛々と光ったのを見て、この猫は雑巾にならずに済んだと安心した。
これが夕立さんと初めてあった記憶。夕立さんは僕が住む町の奇人として有名だった。
彼は夕立と共に現れて、夕立と共に過ぎ去っていく。
10年経ったこの町に、また夕立が降る。
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