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3
次の日、学校が終わってすぐに蔦ヶ谷が僕の席まで来て、帰る準備を急かしてきた。この様子だと親から色良い返事をもらえたんだろう。僕はあえてゆっくりと準備をして、彼と一緒に教室を出た。
今日はやけに蒸し暑く、嫌な汗がじっとりと流れた。川辺を歩いても清々しい気分にはなれない。
川のせせらぎよりも、自転車や蝉の音が耳障りだからかもしれない。この川辺の道は意外に車の交通量が多く、河川敷まで降りないと川のせせらぎが聞きづらいことがある。
蔦ヶ谷の奔放な会話を聞いてもうんざりとした気持ちにしかならず、隣人がうるさい薄壁のアパート生活はこんなだろうかと想像した。
「意外だったのが姉ちゃんだな。すげえ喜んでて、今日ペットショップ寄って帰るって言ってた」
蔦ヶ谷の姉は歳が離れていて、大学を卒業して社会人だと聞いている。職種は知らないけれど、もしかしたら世話がしやすい環境なのかもしれない。
蔦ヶ谷が押している自転車の音がカリカリと音を立てている。どうやったらこの音を止めることができるのか考えていると、鼻先に何かが当たった。
「うわっ……雨だ」
雨粒は蔦ヶ谷の腕にも当たったようで、腕の水滴の後に空を睨んだ。異様に黒ずんだ雲の中を雷が走り強い光を放って、数秒後に腹に響く低音が届いてきた。ヘソを取られるような感覚が分かった。
「ひと雨来そうだな……。すまん粟井、猫のところに行く予定だったけど、降られる前に急いで帰るよ」
そうした方がいい。激しい雨が降る日、いつもあの猫は寝床の箱に縮こまってうごかない。過去に死にかけたトラウマがあるからだろう。
もう走り出そうとしている蔦ヶ谷に頷いて手を振った。
「夕立か……」
僕も雨に打たれないように動き出さないといけないのだが、足はゆっくりと猫のいる川辺へ向かっていた。遠くから追いかけてくるように、激しい雨音が迫ってきて、追いつかれたと思った。
目の前に現れたのは激しい雨と、僕の影から這い出したように唐突に現れた大男だった。
黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い髪。
影の袈裟を着た地蔵だ。十年前に抱いた印象と変わらない。
「はじめまして、粟井くん。僕は……夕立さんだ。みんなそう呼んでいる」
「……はじめましてじゃないよ」
首をかしげた夕立さんは微笑んでいた。
「そうか……この時よりもさらに昔に粟井くんに会ってるんだね。君との関係は運命的なものなのか、それとも人の意思によるものなのか分からなくなってきたよ」
夕立さんの言っている意味が分からない。やっぱり奇人だ。
着ている服はもうずぶ濡れだが、早くこの場から離れてどこかの軒下に入りたい。けれど、夕立さんの圧倒的な存在感が僕を留めていた。
「怖がらなくてもいよ。僕は君に危害を加えない」
「怖くはないです。早くあの猫のところに行きたいだけです」
あそこなら上に橋が掛かっていて雨宿りもできる。
しかし、夕立さんは退いてくれない。
「猫の様子は僕が見に行ってあげるよ。君に傘を貸すから、友達を追いかけて。すぐに走ったら間に合うから」
突き出された傘は10年前に借りたものと同じで、黒くて所々に穴が空いていた。まさか、10年間も同じ傘を使っていたわけじゃないだろうが……。
「夕立がやむ前に追いつくんだ! ほら、早く!」
夕立さんの切迫した声が僕の足を動かし、来た道を走って戻る。急に立ち込めた黒い雨雲のような嫌な予感がある。取り返しがつかない事が起こりそうで、その不安の理由もわからずただただ全力で走った。
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