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僕は子供の頃、文化住宅と呼ばれていた、ボロボロの一軒家に住んでいた。
学校から帰ると、ランドセルを玄関に放り投げて、すぐに友達のいる空き地に向かうのが日課だった。
だが、その日は家に着いた途端に、雷と共に、激しい夕立となった。
「あ~あ、野球やりたかったのに……」
僕はボヤキながら、居間の畳に大の字になって不貞腐れた。
ふと、狭い庭の方から夕立の雨音とは全然違う音が聞こえて来た。
シャーというシャワーを全開にしたような夕立の音に混じって、パタパタパタと何かを叩くような音がした。
一瞬で体が強張った。
夕立の時に現れるという、“あれ”だ。
“あれ”には名前はない。夕立の時に一人でいると急にやって来て、恐ろしい目に遭わすという噂だ。
回避方法は一つしかない。
『絶対に音の方を見ないようにして夕立が去るのを待つ』
窓の方を見ると、薄いベージュ色のカーテンが引いてあって外の様子は見えない。
パタパタパタ……音は庭をゆっくりと移動して、やがて窓辺にやって来た。僕のいるとこと1mくらいしか離れていない。
うっすらと傘の影が見えた。
僕はゆっくりと居間から離れて、奥の台所へ避難した。
ところが――
冷蔵庫の傍にある勝手口の、建付けの悪いドアの外から、あのパタパタという音がして来た。
“あれ”もこっちに来たのだ。
僕は急いでトイレに入ってカギを締めた。
ここで夕立が終わるまで、籠城するしかないと思った。
すると、壁の外からあのパタパタが聞こえて来た。
トイレの下の方にある小窓を見ると、黒い影――たぶん傘――が窓の半分ぐらいを覆っていた。
僕はトイレから飛び出ると、両親が寝室に使っている和室に駆け込んだ。押し入れの中に避難するためだ。
でも、なぜか押し入れの戸が開かない!
建付けが悪いのは分かっていたけど、今まで開かないことはなかったのに。
「あっ!」
寝室の窓を見て、僕は思わず声を出してしまった。
ずっと洗濯していない薄汚れたレースのカーテン越しに見えたのは、黒いこうもり傘。
傘で上半身が見えないけど、差しているのは、僕と同じぐらいの年の男の子で、半ズボンを穿いていた。
「中に、入れてよ」
男の子の不気味な声が聞こえて来た。
僕は、言われるがままに、和室の窓を開けた。
男の子は長靴は脱いだけど、なぜか傘を差したまま部屋に入って来た。そして傘をずらして僕の方を見て、ニッと笑った……気がした。
*
「部屋中、こんなにビショビショにして!! それに箪笥の上の町内会の会費はどこ? 見つけないと、お小遣いなしよ!」
パートから帰って来た母親から、僕はこっぴどく叱られた。
廊下、寝室、台所などの床が、ビショビショになっていた。
でも、怒られている本人は、寝室の窓を開けてから、母親が帰って来るまでの記憶がまるでなかった。
『君、かわいそうだから、この傘あげるよ』という声だけが、頭の中に残っていた。
「このこうもり傘、誰の?」
母が黒いこうもり傘を僕に見せた。あの子が持っていたものだ。玄関の外に立てかけてあったらしい。
僕は不思議な体験を包み隠さず母に話した。
すると母は鼻で笑うと、
「あんた、傘が壊れてたでしょう。明日からこれを使いなさい」
うちは貧乏だったから、母親にとっては渡りに船のシロモノだったのだ。
「でも母さん、祟られたりしたらどうする?」
「なにバカなこと言ってんの! ただの忘れ物でしょう。使っていれば、そのうち持ち主が現れる。その時に返せばいいでしょう」
小学5年生の子供にとっては、母親の言葉は絶対だ。
僕は次の日から、雨の日はその黒いこうもり傘を差していくようになった。
数か月後――
あのこうもり傘を差すようになって、僕は少しリッチになった。
夕立の時、あの傘を差すと、友達からシカトされる。みんな僕の横を、僕のことを無視して通り過ぎるのだ。
そんな時は、こちらから声を掛ける。すると――
「ゴメン、気づかなかった」
「ムカついた! おわびに一人100円いただきます!」
「わかったよ」と、みんな100円くれた。
そんなことがあって、やっと僕はあの男の子を見かけた時の不思議な体験のカラクリが分かった。
みんなあの黒いこうもり傘のせいなんだ。
雨の日ならいつでもいいわけじゃなくて、なぜか夕立の時だけ、あの傘は威力を発揮する。
おかげで僕は小学生にして、立派な犯罪者になった。
さあ、今日はどの家を“訪問”しようかな。
後日談――
小学校の卒業式の日に、僕はあの黒いこうもり傘を、空き地で燃やした。けじめをつけるためだ。
パトカーがやって来た。
放火か何かと間違えられたと思ったんだけど、お巡りさんが言うには、窃盗罪で補導するとのこと。
被害者の皆さんの記憶が戻ったらしい。
やっぱり悪いことはできないものですね。
(終)
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