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勝負
ここまで二人がしたのは、役に立たない傘を発掘し、その過程で汚れた手を雨水で拭っただけ。徒労に終わった上、将の方は制服のズボンの裾がびしょ濡れだ。むしろマイナスなんじゃないかとため息をつく。
将はぼんやりと空を見る。結構時間は経ったと思うのだが、雨脚はまだまだ弱まる気配はなさそうだ。
将はやることがなくなり、始まってしまった沈黙の気まずさを埋めるように、高校での唯一の友人の山本朗から得た情報をひねり出す。
「そう言えば、雨宮さんって陸上部じゃなかった?」
「ええ、そうよ。よく知ってるわね」
「今日は練習お休みなの?」
山本の情報は正しかったようだ。
彼女は夕立のことは予想していなかったと先ほど言っていた。
しかし、ドラマの再放送を楽しみにしていた事実もある。
すると、今日の練習は元々休みだったのか、という疑問がわいてきた。
「わたし、元々あんまり練習には出てないのよ」
「ああ、幽霊部員ってやつ……」
将にとっては意外だった。
負けず嫌いというなら、やはり日頃から勝つための修練を欠かしていないのだと思っていたのだが。
「それは聞き捨てならないわね。こう見えても、県で三番目には入る成績なんですからね」
「えっ、練習サボってるのに、試合には出るの!?」
「さっきから言い方悪くない?
本番に強いって事よ」
雨宮は得意げに言うが、他の部員からしてみれば不公平に見えるだろう。
再放送のドラマが観たい程度で練習をサボるくせに、いざ試合に出てみれば県大会でも入賞する実力があるなんて。
「わたしは別に、将来陸上で食べていくつもりもないし、あくまで自分がやりたい時にだけ練習してるだけ。気乗りしないのに、練習させられる方が負けでしょ。部活なんだから、義務感でやる必要はないはずだよ」
「言ってることはカッコイイんだけどね。なんか腑に落ちないなぁ」
将は少なからず競技の世界に身を投じていた時期があったため、雨宮のような立ち振る舞いにはいささか納得が出来なかった。才能に溺れた、傲慢な人間に見えてしまう。
「走ること自体は好きじゃないの?」
「そうね。そんなには……」
「ええっ!? じゃあなんで、陸上部に入ってるの?」
「昔さ。といっても中学三年くらいだったと思うけど。体力測定で走らされるじゃない。で、適当に走って、一緒に走った女子達の中でも真ん中くらいで、こんなもんだよねーって何も思わなかったんだけど」
そういうのは、意地になって張り合わないんだなと思う将。
それとも、二年前の彼女は負けず嫌いではなかったのだろうか。
雨宮は、将の思惑など気にせず続ける。
「先生に言われてタイム測定手伝ってた子がさ、すごい大人しい感じの子ね。私とは対極な感じの。その子が、言ったんだよね。雨宮さんの走り方って、綺麗だねって」
「うん……」
「それでかなぁ。高校になって、何か選ばなきゃなってなったときに、ふっとそれを思い出して、陸上部入ろうかなって思ったの」
「うん、それで」
「それだけだけど?」
「あ、いや、その子と後々何かあったとか」
「別にないよ。あのね、部活始めるきっかけなんてそんなもんよ」
「そ、そうかなぁ……」
将は、少々納得いかないという表情をした。
雨宮も不満そうに、言葉を返してくる。
「そういう日比谷君は部活なにやってるの?」
「僕は、帰宅部だよ」
「帰宅部なんて存在してないでしょ。無職って素直に言いなよ。孤独を貫いてる割に、負けてる感じがするよ」
「いやいや、そもそも部活であって職ではないから。無職って言い方はないよ」
「そうね。じゃあ、無所属とか」
「一気に政治色が強まるね……。それも嫌だなぁ」
「いいわねえ、気ままなフリーマンで」
君には言われたくないけどねという言葉を飲み込む将。
部活に所属していながら、練習するのは気の向いたときだけなんで、自由極まりない。
自由気ままという意味では、合っている。
しかし、将の気分はそう晴れ晴れとしたものではなかった。
最近は、何をするにしても、今の天気のように曇天の気分だった。
「よくよく考えたら、一年の時から自由人だったよね。
わたし、日比谷君を見かけた事ってほとんどないかも」
「えっ……、あれ?」
「実はわたしたち、一年生の時も同じクラスだったんだぞ」
「えっ、そうだったっけ……。ごめん。一年の時は……、あまり……」
将が口ごもると、一気に気まずい空気が充満する。
無言が続き、雨音だけが無情に響く。
雨宮が意を決したように口を開いた。
「日比谷君、最近学校来るようになったね。なんで?」
将は返答に逡巡する。
しかし、雨宮の目があまりにまっすぐだったため、真摯に返答するべきだと思った。
「雨宮さん、僕が将棋を本格的にやってたって知ってる?」
「うん、知ってる。将棋のルールは知らないけどね」
雨宮が知っていたということに嬉しさを感じた反面、当然の結果でもあると思い直す。普通、クラスメートが不登校なら、事故やいじめなどではなく健全な理由であれば伝わっているはずだからだ。
「奨励会って言って、まあ将棋のプロになるための集まりみたいなものかな」「ええっ、それはすごいね! 私が思っていたより、全然本格的だった!」
「もちろん、その場にいられるだけですごいんだけど……。去年、ずっと応援してくれてたお祖父ちゃんが亡くなってね。モチベーションが全然上がらなくって。今は、ちょっとお休みしてるんだ」
「それは残念だったね……」
「うん……」
「どれくらい強いの、日比谷君」
雨宮の勝負心が騒いだのか、将棋をまったく知らないと言っていたにもかかわらず、何やら挑戦的な目をしていた。
「一応、今は二段なんだけどね」
「すごい! 段持ちなんだ! それは強そう! よくはわからないけど」
「はは……、だろうね」
将が頬をかいていると、彼女は鞄から掌大の小さなリング式のメモ帳を取り出した。
ペンケースからボールペンを二本取り出す。一本を将に渡してくる。
「なんか、将棋してみたくなったけど、ルール知らないし道具もないから、代わりに○×ゲームで対戦しましょう」
「なんで○×ゲーム?」
「将棋と同じく、知力のゲームでしょ。まあ、ここから抜け出すための良い考えが浮かぶまでの暇つぶしよ」
○×ゲームとは、井の字の枠を作って、その隙間に○と×を埋めて、どちらか先に縦横斜めのいずれか三つを並べた方が勝ちという、大半の人間が知っているシンプルなゲームだ。もちろん、将も知っている。
雨宮はメモ帳にささっと格子を描き、真ん中に○を刻む。
「さあ、かかってきなさい」
雨宮が意気揚々と始めた戦いだったが。
数分後……。
メモ帳の大半が消費されていた。
「ああ、もう。30連敗……。強すぎでしょ、日比谷君」
「雨宮さんがよ――。あ、いや。こういうゲーム得意なんだ。まだやる?」
「いいえ。負けを認めます」
「えっ!?」
大半は引き分けで終わるゲームのはずで、連敗する方が難しいのだが。
さすがに次は負けてあげようかと思案していた将だったが、雨宮の素直な返答に驚く。
「なによ?」
「い、いや……、その。素直に負けを認めるなんて、意外だなと……」
「ああ、日比谷君も、私が何事にかけても負けを認めない女だと思ってたんだ」
「いや、そういう訳じゃないけど……」
はっきり言って、そう思っていた将だったが、雨宮に細目で睨まれたら否定するしかない。難癖付けて、自分が一度勝ちでもしたら、鬼の首を取ったようにこれまでの負け戦を覆されるのではと、ひどい事すら考えたほどだ。
「負けを認められない方が、負けてる気がするでしょ」
「う、うん。そうだね……」
「それにしても、やっぱり勝負師なんだね~、日比谷君は」
もはや、負けという言葉でゲシュタルト崩壊が起きそうだった。
雨宮は、勝ちに固執しているわけではないようだ。将は、彼女の負けず嫌いという性質がますますわからなくなってきた。
メモ帳とペンをを鞄にしまった雨宮は、ふと将から視線を外して動きを止めた。
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