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白くて小さな
「どうしたの、雨宮さん?」
雨宮は、じっと一点を見つめていた。
将を通り過ぎて、屋根の向こう側にある隣の家の塀の上の方。
将が視線を追ってみると、そこには不気味な黒い影が。
一瞬ギョッとするが、艶やかな黒は雨に濡れてより妖艶に見える。
それはカラスだった。雨に濡れてもまるで気にしない様子で、塀の上にピタリと止まっていた。
「……なんか不気味だね」
将が呟くように言う。鳥は濡れたら飛ぶのに影響が出て、雨とか嫌うのではないかと勝手に思っていたが、そんな様子は微塵も感じさせない。
「聞こえない?」
「えっ……、何が?」
雨宮も、塀の上に止まったカラスのように一点を見ていた。その先は、強い雨が叩きつけられる足下のアスファルトだ。こういう表情をしている人間には見覚えがある。将には、彼女が耳に集中力を傾けていることがわかった。
将もつられて聞き耳を立ててみるが、ザアーッっという雨音以外は特に気になる音は聞こえてこない。
「確かにちょっとだけだけど……、ほら! 聞こえたでしょ!」
「え、ええっ!? ごめん、ちょっとわからない、ごめん」
雨宮は下ろしていた腰を上げ、つかつかと歩いて行く。
その方向は、店の正面向かって右端。カラスの居る方だった。
「あ、危ないよ……、雨宮さん」
将の警告も、雨宮には届いていない様子だった。
カラスは時に人間を襲うこともある。その鋭いくちばしは、人間にとっては危険な凶器にもなり得る。
将は彼女の手を取り、止めるべきなんじゃないかと戸惑っている間に、雨宮はもう数歩先に進んでいた。
彼女は自動販売機の奥、店と隣の家の境界線である壁と塀のわずかな隙間の前でしゃがんだ。
将は遅れて、自動販売機の方へと向かい、彼女の姿を後ろから見る。雨宮はかろうじて屋根で覆われているその場所でちょこんと座り、雑草で覆われた隙間に手を差し込んだ。
虫や蛇でも出そうな場所であり、将であれば躊躇するどころか、手を突っ込む事など控えたいところであるが、雨宮は全く気にしなかった。
「やっぱり……、可哀想に。迷子かな……」
雨宮が振り返ると、両手で大事そうに白い毛玉を抱えていた。毛玉は濡れていて、その小さな身に張り付いている。ぷるぷると小さく震えながら、怯えるように、「ミー」と鳴いたため、将はそこで初めて子猫だと気づいた。
「よく見つけたね、雨宮さん」
「何となくね。女の勘てやつかなぁ」
「あ、もしかしてあのカラス……」
カラスはまだ塀の上に立っていた。しかし、視線をこちらに移している。
つまり、奴はこの衰弱した子猫を狙っていたのだ。
そう考えるとゾッとする。
雨宮は、強い雑音となっている雨音の中から、草むらにうずくまっていたこの子猫の小さな声を聞き取ったらしい。
あるいは、異質なカラスの存在から推測したのかも知れない。
将は、カラスを追い払おうと、朽ちた傘の柄を持った。
しかし、雨宮が制止してくる。
「やめなって。刺激したら、襲ってくるかもしれないから危ないよ。向こうも人間を警戒してるし、放っておけば諦めるでしょ」
「そ、そうかな……」
言われて、将は傘をそっと置いた。
そして、カラスではなく猫の方を見やる。
雨宮の手の中で、震えながら項垂れていた。時折小さく鳴くものの、雨で体温が奪われているのかもしれない。夏なので気温は高いが、ずぶ濡れの状態では人間だって風邪を引くものだ。子猫にとっては命に関わる事態にも思える。
雨でその小さな身に体毛が張り付いているため、細身がより強調されて痛々しい。
「困ったね……。何か暖まるものあげないと。お腹も減ってそう」
「濡れるの覚悟でコンビニまで行ってこようか……。あ、ごめん。今日家に財布を忘れてきたんだった……。雨宮さん、立て替えられるかな?」
コンビニには猫用の缶詰が売っているはずだ。だが、お金がなければどうしようもない。
子猫を抱えながら、雨宮は気まずそうに目を細めた。
「実はね、今三十円しか持ってない」
じゃあ、さっき飲み物を物色していたのは何だったのか。
将は頬をかきながら、自分の鞄の中を漁ってみた。もしかしたら、数百円くらいは財布からこぼれ落ちて眠っているかも知れない。
「あ、百円玉あった!」
「おお、やったね、日比谷君!」
「……でもあわせて百三十円か。猫の餌買うには足りないね」
将は鞄の縫い目までかなりじっくり探してみたが、それ以上の小銭はなかった。
「だめか……。これじゃあ自販機で何か買うくらいしか。
あったかいのはあるけど、ジュースは動物には良くないって言うし……」
「いいえ、その策に間違いはないよ。さっき自販機のラインナップを見ていたときに、猫でも飲めるものあるなって気づいたの」
「えっ、ほんとに!?」
「ええ。それはズバリ、甘酒よ!」
「甘酒か! って、猫大丈夫なの!? 甘酒!?」
思わず、柄にもないノリツッコミをしてしまった将だったが、照れている場合ではない。
「ええ、前にペットショップの店員さんに聞いたことあるから大丈夫。
缶ジュースの甘酒なら、もちろんノンアルコールだしね。
さあ、そのお金であったか~い甘酒を買うのよ、日比谷君!」
「三十円しか持ってなかったのに、偉そうに言うね……」
将は言われるがまま、自販機に小銭を投入し、『あったか~い』の一番左に位置していた甘酒のボタンを押す。
ガタンと音がして、缶が落ちてきた。
「あつつっ!」
真夏なのにしっかりと暖められていた缶に改めて驚きながら、将は甘酒を取り出した。
とはいえ、缶のままでは子猫が飲めない。
「私、水筒持ってるよ。蓋に入れて飲ませてあげよう」
そう言って、雨宮は型にかけていた学生鞄を将の方に向けてくる。
将は意図をくみ取り、鞄のジッパーを開けて、水筒を取り出した。
中は空のようで、容器は軽かった。蓋を外し、甘酒を少しだけ注ぐ。
「ありがとう。貸して」
将はカップとなった蓋を雨宮に渡す。
受け取った雨宮は、優しい手つきで、子猫にカップを被せるようにして飲ませていった。
最初は躊躇している様子だった子猫だが、次第に夢中になるように甘酒を舐め始めた。数分後には、あれだけ弱ってそうに見えた体も、生気が戻ってきたようだった。
「結構元気になったね。若いから回復が早い。それか、単純にお腹減ってただけかな」
雨宮の手の中で、子猫の震えはすっかり収まっていた。
ニャーニャーとしきりに鳴くようになったが、雨宮の手から無理に脱出するようなそぶりは見せない。栄養補給を恵んでくれた相手に、すっかり懐いているようだった。
「でも、どうするの? この猫……」
「うーん、家はペットダメなんだよね。日比谷君家で、白くて可愛い子猫ちゃん募集してません?」
「んー、まあ。ばあちゃんに任せれば引き取ってくれるとは思うけど」
将自身は、猫は好きでも嫌いでもない。
だが、まだ塀の上で待機しているカラスを見て、この子猫を守ってあげないといけないような気になってくる。
それに、祖父を亡くして気を落としている祖母が子猫の世話で少しでも気が紛れるかも知れないと期待した。
「じゃあ、家で引き取るよ」
「よかったねー、優しいお兄さんがお迎えしてくるらしいよ」
雨宮は、よしよしと人差し指を子猫の頬に押しつける。
猫は嫌がる様子はなく、嬉しそうに目を細めてその感触を楽しんでいるようだった。
「ほら、新しいご主人。抱いてあげな」
雨宮が、将に猫を渡す。
猫は嫌がることなく、将の両掌に移った。
「あ、思ったより全然軽い……」
「まだまだ子猫にゃんだねー。生まれて数ヶ月かな」
将の掌で、コロコロと動く子猫。
こんなところで猫を拾うなど予想だにもしていない事態であるが、いざ抱えてみると愛おしく思える。
直前まで弱っていて、カラスに獲物として狙われていたなど、思い返すとぞっとする事態だ。
その空気を察したのか、カラスは雨の中をものともせず、一つ二つ羽ばたいて曇り空の中に消えていった。
将はなんだか誇らしい気分になる。
「この子、名前なんにしよっか?」
「えっ、雨宮さんが決めるの……!?」
「育てるのは君でも、命の恩人は私。命名権は私にあり」
「なにそのルール!?」
「まあまあ、男がウダウダ言わない。そうねえ。甘酒に命を救われたから、コメマルとかどう?」
「原材料が米だから……? うーん、どうかな。それに、この子雌だと思うんだけど」
「うっさいわね! 今時コメマルは女子の名前としても通じるでしょ!」
「いやいや、まだそこまで時代は追いついてないよ!」
二人があーだこーだと命名談義に花を咲かせていると、またも「ミャー」と鳴き声が聞こえてくる。しかし、将の手の中からではない。
自動販売機の向こう側から投げかけられた。
「あ……」
将がそちらを見ると、白い猫が立っていた。白いといっても、元々白かったのだろうという色合いだ。体の汚れは長年のものであり、猫が野良であることが想像つく。猫はややこちらを警戒した面持ちで、またも「ミャー」と鳴いた。雨宮が撫でようと一歩近づくと、猫は一歩後退して、また「ミャー」と鳴く
「たぶん、この子の親みたいね」
雨宮の推測通りだろう。撫でてもらいたくてやってきたわけではない。構って欲しくて鳴いているわけではない。将の手の中にある子猫、それを返して欲しいのだろう。
「今頃……、助けに来たって言うのか」
将は手の中の子猫を隠すように、半身になる。
子猫が瀕していた危機は、どれも過ぎ去った。それに対して何もしなかった親猫が今更現れたところで、さあ帰りなとは素直に送れない。
「そんなに責めないであげなよ。
子猫が勝手にどっか行っちゃうって事もあるでしょうし。
ちゃんと見つけて偉いと思うよ。人間から取り戻そうともしてるし」
「いや、雨宮さん。それは甘いよ。
さっきのカラス見たでしょ。あいつ以外にも、危険はたくさんある。
親に返したら、明日まで生きられるかどうか……」
将の手の中の子猫は、親に気づいていないのか、コロコロと動きながら大人しくしている。
雨宮は親猫と将の間に立ち、腕を組みながらうーんと唸っている。
そして、掌をポンと叩いて目をパッと開いた。
「日比谷君の意見も一理あるわね。とはいえ、親猫の意志を無視してその子を連れ帰るのもフェアじゃない。ここは、双方の言い分を加味して、子猫自身に選ばせましょう。親の元に戻るか、日比谷コメマルになるかを」
雨宮は将の手から子猫をサッと奪う。そして、将と親猫の中心に子猫を置いた。子猫は急にアスファルトの上に立たされて戸惑っている様子だ。先ほどまでぬくもりに包まれていた将の方へと歩みを寄せる。
「よし、良い子だ……」
「おおっ、日比谷君を主と認めたの、コメマル!」
しかし、親猫が「ミャー」と一鳴きすると、子猫は項垂れていた首を素早く上げ、親猫の方へと向きやる。そして、すぐに親の首元へとすがりついた。
二匹は雨の中、数秒頬を寄せ合ってから、民家の隙間に入って消えていった。
「あちゃあ! フられちゃったね」
「雨宮さん、ひどいよ。そりゃあ親の方に行くでしょ。
コメ……、あの子猫。下手すれば、さっきのカラスに目を付けられて、今日中に仕留められちゃうかも……」
「かもね」
「かもねって……。意外だな、雨宮さんってあまり優しくないんだね」
将は思わず口から出てしまった言葉に気づき、動きが止まる。
だが、投げかけられた当の本人は微笑んでいた。
「でもさ、あの子は自分で選んだんだよ。
例え明日、天敵にやられたり、お腹が空いたり、病気で死んじゃったとしても、大好きなお母さんと少しでも長い時間一緒にいられたんだから。
自分で選んだんだから。後悔はないと思うよ。負けじゃないよ」
そう言って、嬉しそうに笑った。
同時に、雨宮の背後が光り輝いた。
彼女の笑顔が眩しいと感じたのではない。
夕日が照っていたからだ。
将は何となくだが、理解した。
雨宮玲子は、勝ちに執着しているわけではない。
自分自身の譲れない価値観、それに直面したときに妥協しないこと。
それこそが、彼女にとっての『負けではない』気概なのだと。
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