雨やどり

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雨やどり

七月中旬。 夏休みを前にした放課後。 夕方であっても、茹だるような暑さはまだ残っていて、 そのせいで蝉もまだまだ鳴き止む気配がない。 日比谷将(ひびやまさし)は、いつもの帰り道をいつも通りに歩いていた。 高校のクラスメート達は、まだ部活が始まったばかりの時間だろう。 しかし、将にはそんな柵はない。授業さえ終われば、帰宅部の彼にとっては開放感溢れる時間となる。 だが、開放感溢れるのはあくまで時間だけであり、将の心はあまり爽快とは言えなかった。 そんな心の内を表しているかのように、何やら空がどんよりと曇ってきている。 遠くからゴロゴロと雷を孕んだ雲が迫ってきていた。 匂いからも、嫌な予感がする。 将は普段より足早に歩を進めるが、道半ばで雨粒が頬を叩いた。 仕方なく目の前にあった、元々何の店をやっていたかわからないが、シャッターが閉まっている軒先の小さな屋根で雨宿りをすることにした。 ぶーんと冷蔵の音を立てる飲料品の自動販売機の隣で、ざあざあと降る雨を鬱陶しそうに眺めていた。 何か飲み物を買おうかと思案したが、家に財布を忘れてきたことを思い出し、元の位置に戻った。 将は準備が良い方ではない。折りたたみ傘など持ち歩くタイプではなかった。だが幸いにも、これは夕立だろう。 待っていれば、雨脚は去って行き、濡れずに帰ることが出来るはずだ。 それまでの暇つぶしをどうしようか、悩みの種はそれだけだ。 「あー、もう! 何なの!?」 頭に鞄を掲げながら、走ってくる一つの影。 下を向きながら前屈みに、一直線でこちらに向かってくる。 将はギョッとした。 その主が着ているのは、同じ高校の制服だったからだ。 しかも、心なしか声に聞き覚えがあった。 少し身を引くと、背中にシャッターがガシャンと小さく音を立てる。 女子生徒は、シャッターにぶつかるかの勢いのまま屋根の下に入り、ピタリと急ブレーキをかける。 その身のこなしは非常に運動神経が高い様子が窺える。 自分には、そんなに直線的な動きは出来ないだろうと感心しつつも、目が合うのを畏れて身を隠そうにも、そんな障害物は何一つなかった。 案の定、数秒の後に目が合ってしまう。 「あら、日比谷君じゃない。お家こっち方面なんだ?」 「あ、うん……」 鞄を下ろし、肩やスカートの雨粒を手でパパッと払ってから顔を上げたのは、同じクラスの雨宮玲子(あまみやれいこ)だった。 伸ばした髪が肩でくるんと巻き返ったナチュラルボブ。前髪は真ん中で綺麗に分かれていて、その毛先にはわずかに滴が垂れている。 細いくっきりした眉に、綺麗な二重まぶたと長い睫毛。 将は手を伸ばせば届くくらいの距離で彼女を見たのは初めてだったが、学年で一、二を争う可愛さと評されているのは過大評価ではないと改めて認識する。 将は心臓の鼓動がどんどん高鳴るのを感じた。 彼女が好きだからという理由だからではない。 もちろん、彼女に好意を持たない男などいたら異常なのだろうが、将にとってはそれ以前の問題だ。 そもそも将は、女子と話したこと自体が、数える位しかない。高校二年になってからは、ほぼ皆勤で通っているし、しっかり共学ではあるのだが。 そんな内向的な男子生徒が、学校で可愛いと評される、将にとっては雲の上の存在である彼女とまともに会話出来るはずがない。 今の返事も、ちゃんと返せたかどうか不安しかない。 話しかけられるとは思ってもいなかったし、まさか自分の名前をちゃんと覚えてくれているなど、予想すらしていなかった。 「少し走ったから暑いし、ジメジメ感やばいね!  最近の夏はどうなってんだか。これだけ雨降ってるのに、蝉って鳴き続けるもんなんだねー。あいつらウケる」 「あ、そうだね……」 そんなドギマギしている将をよそに、雨宮はまるで気にもせずケラケラと笑いながら話しかけてくる。陽キャ恐るべし、と将はおののいていた。 優しい女子というのは、クラスに一定数存在していて、あまり話を自分からしようとしない男子生徒を気遣ってくれる子はいる。 だが、そういう時にも、やはり気まずい雰囲気というのは流れるもので、会話が長続きしたことなどない。 しかし、雨宮からはそういった、場を埋めるための事務的な会話をしている空気感はまるでなく、彼女にとっては普段通りのやりとりなのだろう。 空気が読めないというより、空気は読まないといった気概を感じる。 「朝、天気予報見たときは、何も言ってなかったのになー。まあ、傘持ってってくださいってお天気おねーさんが言っても持っては行かないんだろうけど。何か負けた気がするからね」 「そっか。僕も、傘は持ってなくて……。  でもまあ、待ってれば止むと思うよ。夕立だろうから」 勝手な想像でしかなかったが、女子というのは可愛らしい折りたたみ傘を鞄に常備しているものだと思い込んでいたが、そうではないらしい。 「でもさ、雨が過ぎ去るのを待つって負けた気がしない?」 「ま、負け? って、誰に……?」 「うーん、何となく。それに、早く帰ってドラマの再放送観たいのよ」 夕立に負けるって何だよ! というツッコミは当然、将には出来なかった。 どうやら彼女がさっきからそわそわとしているのは、早く帰宅したいかららしい。こんな場所で、ろくに知らない男子生徒と二人っきりで居たくないという本心を隠す嘘かもしれないが。 将としても、これから彼女と仲良くなれることも期待はしていないし、早く帰ってもらった方が、雨宮玲子と話せたという淡い思い出を心の片隅に仕舞っておけるのでいいと嫌に現実的な判断をし、話を合わせることにした。 「……その、雨宮さんの家は、ここからどれくらい?」 「走ったら、5分くらいかな」 「それくらいか。じゃあ、濡れるの覚悟で帰るのもありだね」 この雨ならずぶ濡れになるだろうが、すぐにシャワーでも浴びれば風邪を引くこともないだろうし、今日は金曜日だ。 制服を洗濯して乾かす猶予は十分にある。 しかし、雨宮は顎に手を当ててうーんと唸っていた。 将の提案は、お気に召さなかったようだ。 「濡れて帰るってのは、もう負けじゃないそれ」 「えっ、そ、そうかな……」 「ああー、あと50分くらいで始まっちゃう」 雨宮は膝を落としてうなだれる。 将とは対照的に、彼女は非常にリアクションが大げさだ。 「ちなみに、そのドラマって、録画してないの?  そんなに観たいドラマなら、  後でまとめてゆっくり観た方がいいんじゃない?」 「やあねえ。そんなのしてないわよ。だって再放送で、一度観てるし。  内容はだいたいわかっちゃってるから改めてしっかり観る必要はないんだ。 リアルタイムでお茶しながら観たいってだけで。  わかるでしょ、そういう感じ。  それに、再放送のドラマを録画して時間を確保して観るって、なんか負けてる気がするしねー」 「負けって……、だから誰に……」 さっきから、やたらと負けた気がするのが嫌という台詞を聞いている気がする。将はふっと思い出した。 雨宮玲子を一言で形容するなら、可愛い女の子というのは、実は二番目に来る。一番目に来るのは、『負けず嫌い』だという事だった。 全く話したことがない将としては、その話は噂でしか聞いたことがなかったのだが、少しずつその理由がわかってきた。 「よし、日比谷君。ちょっと協力してよ。早く家に帰る方法を、一緒に考えよう」 雨宮は人差し指をピンと立てて、ウィンクを決めてくる。 将がやったら鼻につくであろう動作だったが、彼女がすると実に様になっている。 将はそれを拒否できる程のコミュ力はなかったので、 かくして、雨宮の無茶振りにも等しい、夕立への挑戦が始まったのである。
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