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「君を描かせてほしい」  そう声を掛けられたのは去年の、7月。  おもたい錆色だった空の底が抜けて、突然の豪雨に帰路を阻まれた阿川は美術室のある旧校舎の軒下へ駆け込んだ。  地面に打ち付ける雨粒は大きく、空の暗さからしてしばらくやみそうにない。  参ったな。  濡れた前髪をかき上げ、ため息をついた時、マグカップ片手に新校舎から渡り廊下を歩いてきた佐久間と、目が合った。  阿川の方はすぐに逸らしたが、佐久間は視線を囚われたまま、ずずいっと間を詰めてきた。 「君を描かせてほしい」  開口一番、佐久間はそう言った。 「は?」 「絵のモデル、引き受けてくれないかな」  詰め寄られ、阿川は思わず後ずさった。  背中が校舎の壁に当たって、逃げ場がない。  佐久間はマグカップを持っていない方の手を壁に突いて 「夏休みの間、少しだけどバイト代も支払うよ」 「無理」  阿川は断った。  遠くから駆け寄って来てハグするような強引で一方的な間合いの詰め方がまず気に入らなかった。  それに、美術を選択していない阿川はほぼ初対面である佐久間が自分のどこを気に入ってモデルなんか依頼してくるのか、不信感しかなかった。  くわえてモデルなんて拘束時間が長くて、退屈で窮屈で絶対、割に合わないだろう。  第一、恥ずかしいし。 「そっか……急にこんな事言われても、びっくりするよね」  阿川が引いているのに気が付いたのか、佐久間は我に返ったように身を引いた。 「ごめんごめん、お詫びじゃないけど、よかったら雨宿りしてってよ」  佐久間が退くと、ふわりと柑橘系の清涼な香りが漂った。 「僕は美術講師の佐久間。君は三年生?」 「二年の阿川です。阿川悠樹」 「どうぞ、入って、誰もいないから。タオルくらい貸せるよ」  阿川は迷った。  佐久間は人を油断させるタレ目を細め、先に立って旧校舎の昇降口から入ってゆく。 「早くはやく。さすがにそのままだと風邪ひくよ」  いつまでも上がってこない阿川を振り返って、佐久間が呼んだ。  たしかに、こんなビショ濡れのままで電車に乗ったら冷房で冷え切ってしまうだろう。  雨はまだまだ降りやみそうにないし。  阿川はためらいつつ、旧校舎の廊下に足を踏み入れた。  美術室は一年生のとき、課題制作のために利用して以来だった。  広い教室のはずなのに、石膏の像や描きかけのキャンバス、壁を覆うほど大きな染め布、木工に使う機械や積み上げられたなにかの材料などが壁際を占領していて、圧迫感で息苦しいほどだ。 「こっちこっち」  佐久間は教室の奥、続き部屋になっている準備室から手招きした。 「これ、使って」  佐久間はおそらく私物だろうバスタオルとTシャツ、ドライヤーを貸してくれた。 「ここに住んでんの?」  用意の良さに思わず尋ねた。 「帰るのが面倒なとき、泊ってる」 「勝手に?」 「ははは、まあ、そうだね」  阿川は呆れた。 「それより、寒くない? 髪とそれからシャツもドライヤーで乾かすといいよ」  阿川の肌が粟立っているのに気づいて、佐久間が慌ててドライヤーのコードをコンセントに挿した。 「僕はあっちで作業してるから、ちゃんと乾かしてね」  そう言いおいて、佐久間は教室の方へ戻って行った。 「ありがとうございました」  30分もすると、シャツも髪もすっかり乾いた。  礼を言いながら準備室から教室へ戻ると、佐久間は椅子に座って鉛筆を動かしていた。  阿川が近づいても振り返る気配もない。  一心不乱に描いている手元を覗くと、大きなクロッキー用紙に気持ちいい大胆な線でいくつも素描されていたのは阿川の顔と全身のラインだった。  単純な一本線が像を結び輪郭を得て、動き出しそうなラフスケッチに仕上がってゆく。  その手際にしばらく見惚れていた阿川は、なんだか佐久間の手で服を脱がされ裸にされていくような恥ずかしさを覚えた。 「モデルは断ったはずだけど」 「あ、ごめん、つい」  佐久間はびくっと肩を震わせて阿川を振り向いた。 「つい、ってなんだよ」 「綺麗だったから」  赤面して、佐久間は上目遣いに阿川を見上げた。  陶器のようになめらかな肌から、また爽やかな柑橘の香りが立ち昇る。  その香りに引き寄せられるように、阿川は座っている佐久間の前に立った。  繋いだ視線をどちらも離せなくて、見つめ合ったまま先に口を開いたのは佐久間だった。 「嫌だったら、もう行って」  切羽詰まったような、上ずった声。  阿川は自分が震えているのに気が付いた。  嫌じゃない、と思ってしまった自分への困惑と佐久間の女性のようにしなやかな手に触れられたいと思ってしまった動揺。  だから、おずおずと佐久間が手を握ってきたとき、阿川はどうしてもその手を振り払えなかった。  窓の外ではもうとっくに夕立は止んでいたのに。
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