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「夕立」  地方の小さな美術館の若手画家を特集した展覧会で、阿川悠樹はあの絵と再会した。  暗鬱な雨の街に差し込む薄明光線。  たしかなんとかの階段って言うんだよな。  教えてくれた佐久間の顔は浮かぶのに。  笑うと糸みたいになるタレ目と絵の具の付いた白衣、ふだんは穏やかなのに、阿川を抱き締めてキスしてくるとき、昂ぶった佐久間から柑橘系の香りがしたこと。  なにもかもが、すごい勢いでよみがえってきた。  あれから、阿川は佐久間からの連絡を一切無視した。  半年が過ぎ、一年が過ぎ、やがて阿川が連絡先を変更したのを機に連絡は途絶えた。  地元の大学を卒業して、就職のために上京し、すこしづつ仕事の手応えを感じ始めていた。  佐久間とのことは、もう考えなくなっていた。  少し楽になれた気がした。 「なんの階段だっけな」  喉まで出かかっているのに最後のワードにたどり着けないもどかしさに、阿川は知らず声に出していた。  懐かしい絵を見たせいか、柑橘系の香りまで鼻腔によみがえってくる。  いっそスマホで調べてやろうか、でもそれじゃなんだか悔しい。  もやもやしながら、絵を睨んでいると 「天使の階段、って言うんです」  不意に答えを落とされた。 「!」  懐かしい声。  忘れられたと思ったのは錯覚だった。  振り返らなくても、全身の肌が体温を感じて、鼓動がうるさい。 「久しぶり」  横に立って、並んで絵を見上げる気配に阿川は身体を硬くした。 「佐久間」  顔を上げると、記憶の中より、少し髪が伸びて少しやせた佐久間の変わらない横顔があった。 「元気そうだね」 「そっちも」  他人行儀に挨拶を交わす。 「こんな所で展覧なんて、すごいな」 「おかげさまで」  佐久間の応答にはそつがなさすぎて、阿川は戸惑った。  どんな表情でいるのが正解なのだろう。 「この絵、覚えてる」    旧校舎の美術室で、キャンバスに向かう佐久間を見るのが好きだった。  風景も静物も、佐久間の大胆な絵筆に捉えられると、実物よりも表情豊かに見える気がした。  何時間でも黙って、絵を描く佐久間を見ていたかった。 「人物は描かないんだな」  ざっと会場を見渡して、阿川は言った。 「モデルを断ったのに、君がそれを言うなんてね」  思いがけず苦々しげな口調で佐久間が言うので、阿川は吹き出しそうになった。 「いつの話してんだよ」 「僕はずっと君を描きたいと思ってたよ、今でもそれは変わらない」 「邪魔はしたくない」 「見損なわれたもんだな、これでもプロのハシくれのつもりなんだけど」 「なんでオレなの」 「説明が必要?」 「言ってくれなきゃわかんないよ」 「じゃあなぜ、ここにいるの?」 「それは……」    この無名の小さな美術館で、佐久間の絵が見られると知った時、阿川には見に行かないという選択肢はなかった。  矢も楯もたまらず、有休をとって新幹線に飛び乗った。 「今度こそ、君を描かせてほしい」  佐久間のまっすぐな視線に追い詰められて阿川は無意識に後ずさった。  その手を掴んで、佐久間は言った。 「嫌なら振りほどいていいよ」 「なんでオレなんだよ」 「まだ言うか」  阿川の手を握ったまま、目を糸のように細めた佐久間から懐かしい柑橘の香りがふわりと立ち昇ってあたりに漂っていた。      
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