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「東京の大学に戻るんだろ」
美術室の四角い木の椅子は硬くて背もたれがなかった。
佐久間はその椅子に腰かけてキャンバスを見上げながら、いつものように絵を描いていた。
灰色と墨色が混じり合った暗い背景に遠い人影、行き過ぎるバスや角ばって無機質な建物たち。
幼少時に辛いことでもあったのだろうかと、心配になるような暗鬱な画面に、佐久間は大胆に薄オレンジ色の斜線を書き入れた。
とたんに、夕立の街に光が降り注ぐ。
「綺麗だな」
「天使の階段って言うんです」
厚い雲から漏れ出す光に、雨に閉ざされていた街が活気づいてゆく。
阿川には絵のことはわからなかったが、佐久間の描く絵は好きだった。
「もともと講師は一年の契約だったからね」
佐久間が絵筆を置いたのをみて、阿川はぐっと奥歯を噛みしめた。
決定的な別離の宣告を受け止めるために。
「産休をとっていた藤原先生が戻って来られるから、オレのここでの仕事は終わり」
立ち上がると、意外と背が高く胸板の厚いいい体つきをしている。
高校時代は競泳の県大会で優勝した経験があり、今でも趣味は泳ぐこと。
水が苦手な阿川は何度かジムのプールに付き合った。
といってもガラス張りの見学者コーナーからコースを泳ぐ佐久間を見下ろしていただけだったが。
「悠樹も泳げばいいのに」
帰りの車の中で、佐久間はいつもそう言うのだ。
「今度」
「今度か」
佐久間の目は笑うと糸のように細くなる。
塩素の匂い、嫌いになりそう。
鼻先に触れる佐久間の髪から立ち昇る塩素を嗅ぎながら、そう思ったことを思い出す。
「じゃあ、もう会えないな」
阿川は自分の声がそう言うのを聞いた。
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