夕立

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夕立

かつて僕には、彩子という恋人がいた。 あの日僕はS駅の南口で彩子と落ち合い、Y駅の方に向かって歩き始めた。 雲の色と流れが、夕立を予告する。 「降り出す前に、喫茶店にでも入って雨宿りしようか」 近くに大手のコーヒーチェーン店があったのでそこを目当てに向かったが、あいにく空席はなかった。 どうしようかとうろついているうち、ついにポツリ、と来た。 「ねぇ、ここに入ろうよ」 彩子は古い喫茶店の前に立ち止まって、店の壁のショーケースを見つめていた。 食品サンプルのアイスコーヒー、メロンソーダ、あんみつ、ホットケーキ、ナポリタンなどが並べられている。 どれもこれも日に焼けて色褪せているが、中でもプリンアラモードの上に乗っているさくらんぼの褪色がひどい。 あっという間に強まる雨の中、僕たちに他の選択肢はなかった。 入り口の前に置かれた行燈のような看板には『アロウ』とあり、弓を引くケイローンの姿が描かれていた。 店の床には臙脂色の絨毯が敷かれていて、僕たちの濡れた靴跡が滲んだ。 白いワイシャツに黒いエプロンを着けた、長身痩躯で白髪の男性が、カウンターの向こうでいらっしゃいませ、と囁くように言う。 その時、店内に僕ら以外の客はいなかった。 窓際の席に案内される。勢いよく雨が降っているが、ガラスが分厚いのか、少しも雨音は聞こえない。 代わりに、店の奥に置かれたキャビネットのようなスピーカーから流れるピアノの曲が、我々のいるところまで響いていた。 土砂降りの雨だった。 フードを被って走る青年、手を繋いで駆けていくカップル、レインコートを身につけて自転車を漕ぐ人、小さな折り畳み傘の下で身を縮めて歩く女性… まるで、潜水艦の中から海の底を眺めているみたいだった。 僕がそんなことを思っている間、彩子は熱心にメニューを読んでいた。 水の入った小さなグラスと、温かいおしぼりを店主が運んできてくれた。 「ご注文は」 「コーヒーを二つ」 僕は咄嗟にそう答えた。 「ホットでよろしいですか」 その問いには彩子が答えた。 「私のはアイスにしてください」 店主は伝票にさらさらと書きつける。 「それと、プリンアラモードも」 「かしこまりました。ホットとアイスと、プリンアラモードでよろしいですか」 僕と彩子が同時に頷くと、店主はカウンターの向こうへと戻っていった。 「雨が止んだら、どこへ行こうか」 僕がそう問いかけた時、彩子の目は外に釘付けになっていた。 「ねぇ、あの人たち、あんなところでキスしてる…」 えっ、と言って僕も外を眺めたが、そんな人影は見当たらなかった。彩子はふふっ、と笑う。 「嘘だよ」 いつもこんな風にくだらない冗談を言う。僕は少しだけ不機嫌な気分になったが、彩子は楽しそうに笑っていた。 「すぐに止むのかな、この雨」 「すぐ止むよ。降り続く夕立なんて聞いたことない」 「すぐに止んで、その後、嘘みたいに晴れるのかな」 「うん、そういうもんだよ」 そうだよね、と呟きながら、彩子は水を一口飲んだ。 「雨が止んだら、どうしよっか…」 彩子もそう言いかけた時、店主がカウンターから出てきた。 「お先にコーヒーをお持ちしました」 コーヒーの香りが、雨の湿ったにおいを一瞬忘れさせてくれる。 「映画でも観に行って、その後美味しいもの食べに行くってのはどう?」 僕の提案に、彩子は不満げな顔をした。 「今、観たい映画やってないんだよね」 「そっか。じゃあ、デパートでも覗く?」 「何か欲しいものあるの?」 「僕は別に目当てがあるわけじゃないけど。ウインドーショッピング好きでしょ?」 「好きだけど……それじゃ楽しいの私だけだし……」 「彩子が楽しいならそれでいいよ。何しようか決まらずに街中をうろうろする方が疲れるし」 僕がそう言うと、彩子はぷいっと外を向いた。 雨はもうすでに弱まってきている。 僕らは大学3年で付き合い始めて、あの時は社会人2年目の夏だった。近場のデートスポットは行き尽くしたし、休日に早起きして遠出することもほとんどなくなった。ゆっくり起きて、夕方に落ち合って、食事をして解散。そんなパターンに2人ともじわじわと疲れてきていた。 なにか、目新しいことに飛びつきたい。 そんな衝動が時折頭をもたげる。 だが僕は、彩子を失いたくない。 彩子も同じ気持ちでいるかどうか、確かめたくなる。 しかしそれと同時に、彩子に縛られるのも嫌なのだった。 「あ、晴れてきた」 また窓の外に目をやると、黒い雲の狭間から日暮れの色に染まる空が見えた。 「お待たせいたしました」 そう言って店主が銀のお盆に乗せて運んできたのはプリンアラモード。 明らかに、彩子の目が輝いた。 サンデーグラスにはスポンジケーキが薄く敷かれていた。そしてその上に自家製プリン。プリンを取り囲むようにホイップクリームの波がうねり、白桃、黄桃、キウイ、オレンジ、皮付きのメロン、ブルーベリーがひしめきあう。 プリンの頭には、ホイップクリームとさくらんぼ。 ちゃんと真っ赤なさくらんぼが乗っていた。 「表に飾ってあるサンプルの百倍美味そうだ」 思わず僕がそう言うと、 「半分こする? もうひとつ注文する?」 とすかさず訊いてきたので、僕は店主に、プリンアラモードをもうひとつ、と注文した。 僕らは顔を見合わせて笑った。 外はもうすっかり晴れ渡っていた。 夏の空は無限に広がって見えるから不思議だ。 あの時の彩子の嬉しそうな顔を、僕は今も忘れられない。 《了》
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