藍空

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藍空

 a7d21cf1-2bf5-4441-8dcf-178d1bd672b2  予感は、あったのだ。  初めて会ったあの瞬間に。運命とはこういうものなのかと思った。 「―――最初にあんたを見た時、何か妙な感覚はあったんだよな。手ぇ出すとまずいなって感じが。俺はこういう職人してるからさ、一度手にすると手放せなくなるんだよ。いつまでも何度でも、顔を突き合わせていたくなる」  蒅(すくも)が鋭い視線で藍華(らんか)を射貫く。  深くて濃い彼の目は、あの時見た藍がめの底のような色をしていて、藍華の身も心も染めてしまいそうだ。  腕を掴む手は力強く、痛くはないけれど、振りほどけない。 「だから……惚れたら、諦めるって選択肢はない」  ぐっと藍華を引き寄せて、顔を突き合わせて蒅が言った。  大きく目を見開いた彼女の顔が、蒅の綺麗な瞳に映っている。  近づいた距離のせいで彼の汗と藍のもつ独特な香りが鼻を掠めた。 「俺に堕ちろよ、藍華」 「っ……」  言うが早いか、深い口付けをされた。  まるで食らいつくような、息も許されないような激しい触れ合いに藍華の背が震える。  いつの間にか腰に回った太い腕がくず折れそうな彼女の身体を支えていた。  否、これは囚われているのだと藍華は思った。 「あんたはいい女だ。綺麗で、可愛くて……腹立つくらい一途で。けど報われてない。だったら俺が貰う。奪ってでも、あんたを俺で染めてやる。旦那のところになんて、返してやらない」 「っすく、も……!」  頭が混乱して、激し過ぎる口付けに朦朧として、彼の名を呼ぶしか出来なかった。  いやそれよりも、彼の言葉がいちいち心に沁み込んで、嫌になるほど感情が揺さぶられる。  藍華は泣いていた。  だってそんな事を言われたらーーー堕ちてしまう。  堕ちて、染まって、二度と戻れなくなってしまう。  予感があったのに。  なのに。  彼の藍に濃く染まった手を―――取りたいと、藍華は願ってしまっていた。 ◇◇◇  恋愛に関する話で、相手の色に染まる、という言葉がある。  元は結婚式にある「お色直し」から由来し、白無垢の花嫁が色打掛に衣装替えすることで「相手の家に染まる」との意味が込められていたそうだ。  ならば、と思う。  もしも。  嫁いだ先、伴侶と決めた夫以外の人に、花嫁が染められたならば。  その花嫁は一体、どうなるのだろう―――と。 「……後は私がやるから。帰って良いわよ」  日の落ちた夜空を窓が風景画のように映し出す中、泉藍華(いずみらんか)はパソコンの画面を見たままそう告げた。  隣のデスクから安堵の気配がして、ちらりと視線をやれば青い顔に少しの喜色を滲ませた後輩がいた。彼女の肩に流れた黒い素髪が動きに合わせ揺れている。 「藍華先輩……い、いいんですか? 助かりますけど、でも」  定時を過ぎたからか、後輩は藍華を下の名で呼んだ。聞き慣れた声音には申し訳ない、という謝罪が含まれている。 「いいわよ。悪阻(つわり)、辛いんでしょ」  そう苦笑しつつ藍華が言えば、後輩は申し訳無さそうにしながらも「すみません」と言って残った仕事のデータを藍華の社内アカウントに送信してきた。  ついでに役立ちそうなファイルも追加してくるあたり、本来は仕事の出来る彼女らしいと藍華は思う。  そして以前の彼女なら、定時迄に仕事が終わらないなんて事は無かったとも感じた。  ただ今はどうしても時間が足りないのだ。だからこれは仕方がない。藍華が後輩の残りの仕事を請け負う形になってしまうのにも、もう慣れた。 「気をつけて帰ってね」 「ありがとうございます。お疲れ様でした」  藍華はパソコンから顔を離して後輩を見た。彼女は綺麗な角度で頭を下げて、申し訳なさげに言った。  いいよ、と藍華が手を振ると、安堵の表情でもう一度軽く頭を下げてからフロアを出て行く。  後輩が出口に向く一瞬、藍華は彼女のやや膨らんだ腹部に視線を向けた。  身体は以前とさほど変わらず細いのに、そこだけが僅かにふっくらしている。ゆったりしたワンピースの裾がふわりと揺れて、暗くなったフロアに曲線の影を描いていた。  ヒールの無いぺたんこ靴は可愛らしく、藍華は後輩の後ろ姿を見ながらまるで少女のようだな、と思った。  以前は八センチヒールでフロアを闊歩していた彼女は現在、妊娠四ヶ月になっている。   仕事もそれに合わせて時短勤務に変更された。午前が弱い彼女の場合は昼一時から夕方六時迄が勤務時間だ。  だというのに今日は一時間以上も残業していた。悪阻で辛い身体を押してまで頑張ったのは、時間内に仕事が終わらなかった罪悪感ゆえだろう。  頻繁に手洗いへと向かう彼女は傍目から見ても辛そうだった。  無理しなくてもいいと言っても、真面目な性格ゆえか頑として自分でやると言って聞かなかった。  流石に残業一時間過ぎてからは観念してくれたようだったが。  どちらかと言えば出来る女なコンサバ系だった彼女は、今やふんわりしたガーリー系お嬢さんに変身している。かつてはカラーもパーマもしっかりあてられていた髪は今や自然な黒で、髪型もナチュラルなストレートになっていた。  「なんかもう、そういうのいいや……って感じなんです」そう告げた彼女の顔は、男性社員をやり込めていた負けん気よりも、母となる喜びに溢れていた。  妊娠で女性は変化すると言うけれど、見た目だけではなく性格までこうも変わるのかと藍華は驚いたものだった。 「子供、かぁ……」  暗くなったフロアで時計を眺め一人呟く。  残っているのは藍華一人だけ。  照明が彼女のいる場所だけをスポットライトの如く照らしている。  いくつも並んだ物言わぬパソコン達の黒い画面が物悲しく、寂しく見えた。  人気の無くなった社内というのはどこか、学生時代に見た放課後の校舎を思わせる。顔振りや年齢が変わるだけで、結局人は建物の中に引きこもり机に座っているのだと思い知らされている気がした。 「連絡したほうがいいのかな……」  ふと窓を見れば、夜空はいつの間にか鼠色の雲に覆われていた。  月も星も隠してもこもこと暗い雲はさながら埃の塊のようだった。  柔らかそうなのに、綺麗ではない。  曇り空は藍華の気持ちをどこか暗鬱とさせた。仕事はまだまだ残っている。  一人になったフロアで彼女は部屋の端にある時計を見た。  パソコンの画面上でも確認は出来るが、なんとなく短針と長針の位置を見たかったのだ。案の定、針は夜七時半を過ぎていた。  残っている仕事の量からして、帰りは十時を越えるだろうと予測をつける。  なら連絡をしなければ。そう思いスマホを手に取ろうとして―――藍華は動きを止めた。 「必要、ないか」  フロアの暗がりに彼女の声が溶けて消える。メッセージで連絡をしようと頭に描いた人物は、本来なら藍華にとってこの世で一番大切な人である筈だった。  しかしそれが既に過去の事になっている気がして、藍華はスマホに近付けた手をそっとキーボードの上に戻した。  つい先日のある出来事をきっかけに、藍華は夫である泉綱昭(いずみつなあき)と近頃は口付けすらしていない。  それが藍華達『夫婦』の形だった。今だって家にいるのかどうかもわからない。  藍華は後輩の膨らんだお腹を思い出した。  あの中には愛情とか幸せとかが詰まっているように思えて、その羨ましさに彼女の眉間に無意識に強く力が入る。  馬鹿馬鹿しい、と藍華は自分に嘆息した。  後輩のお腹にいるのは胎児であって、藍華が考えているような「愛された証」などというものではないと頭を振る。  確かに赤子の誕生は妻が夫に愛された証であり、そして幸せそのものだ。  しかし、藍華が考えているのはそういった事ではなかった。  なぜ自分はああなれないのか、なんて思うのはお門違いだと彼女は理解していた。 「藍華先輩、か」  今年三十二を迎えた藍華は社内でそう呼ばれることが増えた。  それは当たり前の事な筈なのに、生憎彼女が所属する課でそう呼ばれるのは藍華だけだった。   一緒に入った同期達は転職だったりあるいは結婚だったり、産休だったりで皆いなくなっていたのだ。   残った同僚も子供ができると皆時短勤務やパートなどの勤務形態の切り替えを選択していた。    そのため彼女のように夜遅くまで残業するのは独身者くらいだった。  金銭的に苦しくないなら、誰だってそうするだろう。  藍華も結婚はしているから理解できる。何しろ彼女自身、いつかはそうしようと考えていた。  だけど今の藍華に子供はいない。ついでに言えば、それに関係するような接触もここ数年、無かった。  いや、正しくは接触を試みたものの、拒否されてしまったのだ。  藍華達夫婦はいわゆる「セックスレス」という状態だった。  しかも夫から拒否されているかたちでの。 「家族……」  その時夫に言われた言葉の一つを口にして、彼女は窓を見つめた。  雲の隙間から濃く深い、空のざまざまなものが混じり合った青、藍色が見えている。  そこで藍華はふと思う。  確か藍色とは、紺とは違っているのだと。  よく空を紺青とたとえるけれど、藍色は紺ではなく単純な青でもないのだ。  深く、暗い緑がかった青が【藍色】と呼ばれる色らしい。  あの日もこれと同じような夜空だった、と藍華は辛い記憶を思い返した。  その夜。  藍華は女としてのプライドも、愛情も、両方とも夫に傷つけられた。
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