式神雪灰

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式神雪灰

 居候のツバイが夕食の支度を済ませて待っていた。日雇い労働の現場で集団暴行を受けていたところを助けた男だ。年齢は不詳だ。少年かと思うときもあれば,遥かに年上の老人めいて見えるときもある。 「そ,そうか,受けとってもらえなかったの……」ツバイは泣き出しそうな顔で白髪の勝る胡麻塩頭をぼりぼりと搔いた。ふけと長髪がささくれ立った畳の上に落ちる。「ぼ,僕が(けしか)けるようなことを言ったのがいけないんだ」銀灰の瞳が忙しなく動く。 「それは違うだろ。俺があんまり悩んでたからさ――アドバイスをくれたツバイには感謝してるよ。おまえは優しいな。みんながツバイみたいだと平和なのにさ」 「も,揉め事は嫌いだ」 「ホントそうだよ。面倒くせぇ。それから恋愛も。こんな気持ち,なくなりゃ楽なのにさ」 「だ,誰かを恋する気持ちは素晴らしいさ。ひ,人の命は短かいだろう。お,想う相手がいるならば,は,早く告白しないと時間は待ってくれない」 「まるで,あいつみたいな恋愛論をもってるんだな――同じようなことを言う奴を知ってるよ。保輔っていうカワリ者だ」  ひゃっと悲鳴をあげてツバイが皿を落とした。畳に転がる煮つけの芋を拾いあげ口中に放りこむ。「うまっ!――」そう言うと同時にアパートのドアがひらいた。  保輔だ。断りなしに入ってくる。しかも土足で。 「おーいおい,靴を脱げよ」 「いつから式神使いになったのだ?」卓袱台に並べられた脂身の多い肉や具の豊富なスープの皿々を見おろしながら問うてくる。「身の回りの世話をさせる式神か」  保輔の視線が俺からツバイへと流れた。ツバイが頭を抱えこみ,畳に蹲る。再び2人の目はかちあった。 「解せぬと思うたのだ――そなたには神が憑いておる。ゆえにそなたの前で我の術は通じぬはずだ。だが通じた。何ゆえか……」腰を屈め,顔面を接近させてくる。 「な,何なんだよ」後方へ仰け反った。「勿体ぶらず早く言え」 「その訳は一つだ」徐に指をのばし,小皿から一摘まみする。 「あ,(なます)!――好物なのに勝手に食うなよ!」 「うん……」頷きながら言葉を継ぎ足す。「それはだな,何者かがそなたを神から隠しておったのだ。そなたの周囲には神をも欺く結界がはられておる」 「神を欺く結界って……それしたの,もしかして……」  保輔の視線が全てを物語っていた。 「ツバイ……おまえ,それじゃあ……」 「お,おっしゃるとおり僕は式神です。だ,騙すつもりなどなかったのです。言っても信じてもらえないから」 「何ゆえ珠緒(たまお)に結界をはったのか?」保輔の声にツバイはびくりと反応した。「そ,それは……」 「有体に申せ」厳しい口調に,身を縮めるツバイのそばに寄り添った。「おい,そんなに問い詰めんなよ。こえーじゃねぇか。ツバイは優しい性格なんだから」 「腑抜けの式神がはった結界で,そなたも腑抜けになっておったぞ――いや,それもまた可なり。腑抜けならば思いどおりにできようものぞ」 「アホか,気色の悪い――腑抜けになっても,てめぇなんぞぶっ飛ばしてやっからな」 「ど,どうか,どうか,これ以上はやめて――」ツバイが俺の両足にとりついた。「こ,これ以上続けると,き,君の威勢で結界が破れてしまう。ぼ,僕の結界は,き,君の優しい心で保たれているんだよ」畳に突っ伏して両手をあわせ,ぶるぶる震えている。 「大丈夫だよ――」ツバイの背中を撫でた。「俺に憑いてる神はそんな悪い神じゃない。話せば分かる相手だよ。それに“憑いてる”って言ってもさ,実際は俺のほうから憑依しないと合体できないんだぜ。つまりは神が俺を操り,おまえに危害を加えるなんてことは絶対ないのさ」 「ち,違うんだよ~。ぼ,僕の恐れているのは幼馴染みの式神なんだ」  話を急かそうとする保輔を突き飛ばした。空気の張り詰めるのを感じた。 「やめて!――」ツバイにしがみつかれる。「ら,乱暴な気持ちにならないで! 君は我の強い人だから,1度きりしか結界をはれない。結界が破れるなり,君に仕える僕も忽ち見つかってしまうんだ――僕を探している式神の雨宮(あまみや)に」 「式神雨宮――」保輔が血相をかえた。 「人間に使われることを忌み嫌い,ついには人間を支配しようとした式神――そしてあなたさまがその腸に封じこめられた式神でございます――保輔さま」ツバイがひれ伏した。 「我を存じておるのか」 「私めの真の名は雪灰(せつばい)。隠匿と逃避を得手とする式神です」ゆっくりと身を起こしながら巨大化して天井まで達する銀灰の影へと移ろった。透過する影の揺らめくごとに降りしきる灰塵は,畳上に積もりそうに見えながら,まばたきの次の瞬間には既に跡形もなく消失しているのだった。  雪灰が心配げな面持ちを窓外へとむけた。「雨宮の使いの者が行き来しておりますようで……」 「さすれば,かの世において雨宮は我が腸より解き放たれてしもうたか」保輔が独り言のように呟いた。 「御推察のとおりで……」雪灰がまた平伏した。 「来るべき時が来たか――」腕組みをして座り,両眼を閉じる。その青白い頰に,蝉時雨をのみこんで窓を叩く雨の影が映った。  夕立は本降りの気配を含みながら脂ぎった橙の空に闇を呼ぼうとしている……
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