呆ける

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呆ける

 二重人格の屠羽房(とうぼう)愛子(あいこ)は死んだ恋人の愛湖(あいこ)に瓜二つだ。生活を切り詰めて買った指輪をさしだせば,ふてくされた態度で毒を吐く「黒」の愛子が,控えめな物腰で消えいりそうに言葉を繫ぐ「白」の愛子へとかわった。 「私が彼女なら悲しむでしょうね……見た目が似ている別人に,あなたが指輪を贈るなんて……」  胸の張り裂けそうな思いがした。「――俺,何,馬鹿やってんだろう――でも違うんだよ。愛子さんにはいつも世話になってるから――だからそのお礼だよ。深い意味なんてないし――」 「深い意味もなしに指輪なんて贈らないで……」異国情趣漂う瞳を曇らせて去っていく。  追いかけたいが追いかけられない。良心の呵責にとらわれていた。 「少し痩せれば,入るかのう」  いつの間に背後にいたのか――保輔(やすすけ)がケースから抜きとった指輪を小指の先にはめている。取り戻そうとするものの,巨体を軽々と操り遥か後方にふわりと飛ぶ。「あの女の素性は申したであろうに」  愛子は威祉輝(いちき)の妹だ。しかし威祉輝こと,現代に転生した平安の盗賊貴族 藤原(ふじわらの)保輔は告げた――愛子はかつて保輔の手にかかり死んだ女賊の生まれかわりなのだと。そして俺の心を惑わす彼女を再び殺すとも…… 「保輔――よく聞け。愛子さんは確かに死んだ彼女に似てるけど,だからって俺は愛子さんに交際してもらおうなんて思っちゃいないよ。だから始末するとかどうとか,愛子さんに対して物騒な考えをもつのはやめろ」 「然らば,何ゆえ,かようなものを与えようとしたのだ」指輪を掌にのせ,ゆっくりと近づいてくる。 「それは……どうかしてたよ」  眼前に差しだされた指輪を手にとろうとするなり,節榑だってはいるが,きめ細かな皮膚につつまれる長い五指がしなやかに閉じてしまう。 「ど・う・か――しておるな」頭頂の結束部からこぼれる髪筋を耳にかけて睫毛奥の楕円の両眼を細めてみせる。「げに如何したのだ? 近頃のそなたは実におかしい。何ゆえ奪い返せぬ? 本来なら容易いわざであろうに」 「……だな。マジどうしちゃったんだろう」  保輔は浮き文様のある雑袍(ざっぽう)の袂に片手をしまった。 「何するんだよ,指輪,返せよ――」 「贈る相手がないのだ。我が貰っておこう――よからぬものがあれば,邪念もまたわいてこようもの」 「……かもな,持ってたら愛子さんのことばっか考えちゃうし」  全身をゆさゆさと揺さぶられた。「全く如何した?――平素の覇気がないぞ。力ずくで奪ってみよ」  首を横に振った。「やめとく――帰る」 「これ,待たぬか――」掌を翳せば煙が立ちのぼる。煙は頭上に集まりながら緩やかな弧状の一帯をなし(かささぎ)の群れへと化した。「先程も驟雨に襲われた。濡れぬように鵲らの翼に身を寄せて行け」 「大丈夫――天気に詳しい友達が,傘は要らないって教えてくれた」さよならを告げて歩きだす。「あ,そうそう――夕立のときは気をつけろとも言ってたぜ。鬼の子分たちが偵察のためにあちこち駆け回ってるんだってさ」  公園へと続く砂利道が林道と交わる地点で,雨に打たれながら逃げ惑う人々を背に負い,鵲の傘の下に佇む保輔の姿を目端に認めた。  上空を見あげれば雲一つない晴天だった。
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