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無事定時に帰れた真柴は、今日一日気を張って過ごし続けたせいでマンションの玄関に入るなりへたり込んでしまった。
「明日土曜でよかった……メディアにいるお陰で土日はちゃんと休みだからそこは本当に感謝しないと……」
ズルズルと弱った猫のように四つん這いでリビングまで進み、ソファに這い上るとようやく体を横にすることができた。
「はぁ──、疲れたぁ……お腹すいたぁ……眠い〜」
全ての欲望が口をつく。
腹の虫がうるさいのはわかっているが、何よりも今は眠くて真柴はそのまま誘惑に抗えず眠りへついた──。
グウウー、と大きな音で真柴は眼を覚ました。
「腹減った……」
今度は別の欲望が真柴を眠りから呼び起こした。ヨロヨロと眠気の残る身体を起こしてフラつきながら冷蔵庫を覗く、わかっていたが大したものは入っていない──視界の隅にある炊飯器は空を示すように蓋が垂直に開いたままだ。
「宅配かなぁ……」
今から米を炊くのも自炊するのも面倒で真柴は携帯に手を伸ばした。
何かあっさりしたものが食べたくて、検索するが丁度いいのが見当たらない。
ソファに頭を預けた後ろからインターフォンが鳴り真柴は反射的に振り返った。
カメラをオンにするとそこには昨日の悪魔が映っていた。
「なっ……」
よくも懲りずに現れたなこの野蛮人αめ、今警察を呼べばコイツを連行して行ってくれるのではないかと真柴の中で黒い炎がメラメラと燃えている。
「栗花落さーん、お届けものですよー!」
反応の悪い真柴を無視して画面の向こうの悪魔はコンビニ袋を真柴に見えるように上に掲げた。
「こちらお粥とおでん、オプションでアフタービルもございまーす!」
エントランスで大声を出すものだからその声が反響していて真柴は生きた心地がしなかった。
慌ててロックを解除するとカメラに向かってニンマリ笑うケダモノかいた。
「お前ふざけんなよ! ここの住人に俺の生き恥を晒す気かっ!」
「いやいや、よく言うよ、風呂場であんだけあんあん言っといて、通気口ってフツーに他の部屋にもバンバンに響くからね次から気をつけて?」
──今すぐこいつを刺してやりたい! と真柴は真剣に思った。
だけど出されたおでんの出汁の香りにまんまと口元が緩んでしまい、いただきますと同時に大根を口に運んでいた。
その姿を見てなんだかリスやウサギみたいだな、とキイチは思ったが口にしたらまた殴られる気がしたので今回はちゃんと学習した。
「今日ちゃんと会社に行ったの?」
「行ったよ、当たり前だろ」
「えらいねー、痛かったでしょう? 初めてだったもんねぇー」
子供にするみたいにキイチは真柴の頭をポンポンと軽く叩く。煮卵を口にしたまま固まる真柴と目があった瞬間割り箸がその顔面に飛んできた。
「痛い痛いっ、ちよっ、服と部屋が汚れるからっ」
キイチはばら撒かれた割り箸を拾いながら真柴を見ると相手はもう全身真っ赤になっていた。
「なっ、なっん、はっ、えっ?!」
「わかるよ当たり前だろ。挿れた時狭くてチンコ折れるかと思ったもん」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
別に誤魔化したわけじゃなかったけれど、あの時バカにされた反面素直にいうもの悔しくて、真柴は最後までそのことを口にしなかったのに──。
「ごめんね、初めてだったらもっと優しくした──いや、あの状態では無理だったわ、やぱごめん」
──やっぱコイツ刺したい! と真柴は二度目の猟奇殺人を脳内で遂行した。
動けない真柴をよそにキイチは買ってきたティーバッグを出してその辺にあったマグカップに紅茶を淹れ始めた。「砂糖とミルクは要るー?」とキッチンから聞かれ、なんとなく子供っぽいと思われるのが恥ずかしくてそちらを見ることなく頭だけ頷いて答えた。
真柴は相変わらずクッションで顔のほとんどを隠している。
「いつまで拗ねてんのさぁ、いいじゃん別に、誰にだって初めてはあるって。ぶってるなんて言って悪かったよ。本当に処女だったとは思わないじゃん?」
──謝ってるのか開き直っているのかどっちなんだコイツ、と真柴は隙間からギロリとキイチを睨んだ。
湯気の上がったミルクティーを顔の前に出されて素直に受け取る。
「紅茶派なのか?」
「俺はね。コーヒーのうまさは俺にはわかんないね。後味臭いし、見るからに胃に悪そうだし」
「舌はお子様なんだな」
「なんだと、その舌でイきまくてったのはどこのどいつだ」
ボスン! とキイチの顔面に真柴が顔を埋めていたクッションがヒットする。
「〜〜〜手癖が悪ィ!」
チッと舌打ちするキイチのことなどお構いなしに真柴はミルクティーを啜る。
丁度いい甘さとミルクですごく美味しい──。
なんでも器用にこなすキイチに少し腹が立ったけれど、真柴の頬は勝手に緩んでいた。
ソファを背もたれにして二人はローテーブルの前に並んで座っていた。安堵のため息をつきながらミルクティーを飲む真柴の姿を片膝を立てて眺めるキイチが隣にいる。
「──俺、お前のフルネームも歳も何も知らないんだけど……」
キイチの視線に耐えかねて真柴はボソリと呟いた。
「夏目のオッサンから聞いてなかったんだ? 樹神キイチ、18歳。開誠高校の三年生です」
キイチの口から出た都内随一の名門進学校の名前に真柴は眼を丸くした。
「か、開誠?! 嘘だろ?」
「いや、そこ嘘つくのはさすがに痛いでしょ。残念ながら本当です」
「下半身に脳味噌ついてるのに?」
「ついてるのにねぇ、残念」
生まれ落ちる星の違いにαとΩではこうも差があるのかと大学受験で苦しんだ日々を真柴は思い出していた。
「アンタまさか俺がなんの努力もしないαだとは思ってないよね?」
図星をつかれた真柴が顔を上げるとすぐそばまでキイチは顔を寄せていた。
「アンタの周りには一人もいないの? αであることを強いられている奴」
──その言葉にドキリとした。
よく知る中に一人いる……それは同期の奥秋だ。
奥秋はαのせいで常に周りから期待されていて、それに応えるべく必死に仕事をこなしている。要領は真柴のそれよりずっといいが、それでも大きな仕事の締め切り前はゾンビみたいに干からびてることなんてしょっちゅうだ。
──失敗してもΩだからと諦められる者とαだからこそ許されない者と……。
それはどちらも辛いことに変わりはない──。
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