ep.1

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 真柴の勤める会社はそれなりに大手の広告代理店で、真柴はその中のマーケティングデータ部に所属しており、主に市場調査が彼の仕事だ。  そんな部内で上司から受けた指示に真柴は耳を疑った。 「メディア部のアシスタント? 僕がですか?」 「メディアにきたクライアント依頼が街の若者の特集みたいで、若い子の発掘に行くらしいんだわ。今何人か育休で人手足りないらしくてな。お前まだ若手だし、その辺のおっさんよか若いのと話通じるだろ?」  だからといってなぜ突然部署違いのメディア部の手伝いへ行けと自分にいうのか──。  肩を叩かれている気がして真柴はズンと頭を重くした。入社2年目が会社の命令に断れるはずもなく真柴は大人しくそれを受け入れた。  顔合わせのために4フロア下のメディア部に向かう。残業続きで疲れた頭が今日はさらに重く感じる中エレベーターはそんな真柴の憂いなどお構いなしに一瞬で扉を開いた。  普段入ることのないフロアーは完全なる異世界だ。スーツが基本の自分の部署とは違い、すれ違う面々の殆どは明るいカラーのオフィスカジュアルが基本で、首から掛けた社員証がなければ外部の人間なのか身内なのかの区別すらつかない。 「おー、真柴」  聞き覚えのある声に真柴は振り返った。 「夏目さん……」  夏目と呼ばれた男の年齢は40半ばで、杢グレーのポロシャツに濃紺のドライのノータックパンツといった完全なる軽装だった。社内禁煙なのに胸ポケットには明らかにタバコの箱の膨らみが出来ている。  天然パーマの黒髪と伸ばしたままの口髭、その風貌はお世辞にも小綺麗とは呼び難い。  少し猫背になった背筋を丸くしたままズボンのポケットに片手を突っ込み、片手にはコーヒーカップを持っている。 「おー、久しぶりだな、少しは背伸びたか?」  親戚の子供に言うみたいに夏目は揶揄ってみせたが真柴は冗談に乗る気分ではないようで「もう伸びませんよ」とだけ軽く返した。 「──まさか夏目さんが俺を指名したんですか?」 「んー? まあな」  二人の出会いは2年前の入社式だった。社内報の編集兼カメラマンとして夏目が入社式や新入社員の姿をカメラに収め、その時まだまだ初々しくバイタリティに満ち満ちた真柴と出会った。  なんとなくその姿が目に止まって、夏目は真柴に声をかけ、取材に応じてもらった。  これからしたいこと、なりたい自分。耳が痛くなるくらいの汚れの知らない美しい未来を語る真柴に夏目は頼もしさよりも危うさを覚えた。  真柴が自分と同じβや、αであればそうではなかったと思う──だが、彼はΩだったのだ……。  危惧していた通り、あの時カメラに映った真柴はもうここにはいない。  あの嬉々として未来を語る眩しい笑顔とハリ艶のある赤く染まった頬は目の前の真柴からはすっかりなくなっていた──。  今は怒りすらその瞳には孕んでいる。 「どうしてっ」 「お前には直接人と接する仕事のが向いてるんじゃねぇかって思ってなぁー、一人で黙々とパソコンやデータに向かうより生身の人間と──」 「夏目さんにとっては単なる気まぐれな思いつきでもマーケティングから抜けてる間俺は出世から遠のくんですよっ」 「──出世したいのか」 「当たり前です、一生平社員なんて俺はごめんですよ」 「つまんない大人になったな、真柴」  真柴は夏目の意図していることが全く理解できなかったし、飄々としたその態度に苛立ちしか出てこない。βの夏目には理解できないんだと真柴は唇を噛んだ。 「外行くぞ、暑くなるからジャケットは置いていけよ」 「夏目さんっ、ちょっと……っ」  この異動が気まぐれなら今すぐ取り消して欲しいのに、夏目は真柴の気持ちを聞く気が全くないようでカメラバッグを肩からかけるとさっさとエレベーターホールへと歩き出した。  仕方なく着ていたジャケットをフリーアドレスの空き椅子に掛けてその後を追う。  夏目は行く先々で出会った青年たちに声を掛けた。デートやショッピング中の学生もいればバイト中のフリーター、ゲームセンターに屯する若者。相手がどんなだろうが夏目は臆することなくフランクに声をかけ、写真を撮っていいかと頼んで回った。  手伝いで呼ばれた真柴はその後ろを飼い犬のように着いて歩くだけで先ほどから誰一人とも口をきいていない。
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