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anecdote.9
「どうしたの、胸痛いの?」
真柴がさっきから無意識に胸をさする仕草に気付いたキイチが心配そうに顔を覗く。
──しまった、と思いながら真柴は「ちょっと痒かっただけ」と笑って誤魔化した。
本当は少し痛い。慣れないことをしたのとあの数時間後に大弥はまた泣いて、胸を吸わせたらあっさりと泣き止んだのだ。
こんな簡単なことなら早く教えて貰っておけばと思う反面、一人の時でないとこれは出来ないと葛藤する。
──きっとこの羞恥心もあと一週間もすれば忘れてしまうのだろうと真柴はすでに母としての悟りを開きつつあった。
突然背後から胸を触られて反射的にその手を払った。
「なんだよっ急にっ!」
「なんでそんなに怒んの〜」
大学生とは思えない甘えた声で夫は駄々をこねた。
「急に触ったら普通は怒る!」
「なんでぇ、真柴は俺の番でしょ〜!」
「持ち物みたいに俺を扱うなら明日から三食抜きにするし、夜はリビングで寝てもらうからな!」
「急にうちの母ちゃんみたいな事言うなよ〜、今日の真柴怖いよ」
真柴はその言葉に正鵠を射かれ、心臓が思い切り跳ねた。今その人の話をして欲しくなかった〜と、真柴は心の中だけで喚いた。
今日あった色んな出来事や発見が、頭の中で渋滞を起こしていると言うのに空気を全く読まない夫は偉くご機嫌で、真柴の身体を簡単に持ち上げては人のことを子供みたいにくるくる回した。
「も〜っ、なに!」
いい加減その能天気さに今日は腹が立つ。
真柴がヒステリックに怒ってもキイチは基本的に気にしない。こう見えて育児疲れの真柴の扱いに慣れているのだ。
「前期の成績、学部で首席取ったよ」
「──────はぁあ〜?!」
自分とは全くレベルの違う世界の話をいきなり切り出されて真柴はまたも思考が停止しかけた。
「何それ、褒めてもくれないのかよ」
少し拗ねた夫に真柴は心から申し訳なく思った。
「ごめん、びっくりして。すごいね、本当におめでとう。凄すぎて言葉出てこなかった……キイチの脳味噌どうなってんの、謎過ぎるよ。下半身についてたんじゃなかったの?」
まだ一年生で、一週間講義がビッシリ埋まっている上、夜中のバイトをこなし続けた夫にどうしてそんな神技を成し遂げることが出来るのか、真柴には全く理解出来なかった。
そんな年頃の夫が望むご褒美は、高級ブランドでも高級車でもない、目の前のΩなのだ──。
真柴にはそれが一番不思議でならない。
真柴は諦めたように微笑んで、可愛い男の前髪をすいて額にキスして口付ける。
「俺、二人目が欲しいな……真柴」
「えっ、ええ〜」
真柴は思わず悲痛な声を上げる。
流石にそれは大弥が誕生日を迎えるまでは勘弁してください、とお願いしてどうにか承諾を得た。
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