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「起きなさい」優しい声が響いた。
「チヌや。起きるのです」
二度目の声に床の上の着物がモゾモゾと動き出した。
「冬が来ます。いつまでもここには住めぬぞ」
母の声にチヌはようやく目を覚ました。寒さしのぎの母の着物から顔を出して半身を起こすと、ブルっと身震いがした。キリリとした目元に似合わわぬ丸っこい鼻から鼻水が垂れる。チヌはズズっと鼻水をすすると、隙間だらけの板壁からまたしても冷たい風が吹き込んできた。
「時が来たのです」また母の声だ。
チヌは枕元にある割れた竹でできた食物入れを手に取って中を確かめる。ふた粒の木の実がコロコロと転がったのをひと粒ずつ、ゆっくり口に運んだ。それから立ち上がっておもてに出た。ここは多武峰(とうのみね)という山の中腹である。三輪山から吹いてくる風がさらに冷たく感じる。
「お前独りでは冬を越すことはできん。山を降りるのです」
チヌはちらりと声のする方向に顔を向けたが、もちろん母の姿はない。母はふた月前に病気で亡くなったのだ。チヌは小屋の横手に回り、母の墓の前に立った。墓といっても柏木の折れ枝を突き立てただけの粗末なものだが、そこからは三輪山が美しく望めるのだった。
「ここに住めぬと言われても、あたしは生まれてずっとここで暮らしていた。どうもできん」チヌがつぶやいた。
「お前を生んだのは三輪の里。覚えてはおらんじゃろうが、一年半は里で普通に暮らしていたのです」
「初めて聞くよ。でもそれならなんで山暮らしに」
「私たちが生きていては不都合な者がいたのです」
「あたしと母さまを?」
「お前に父親の名を告げることは出来ぬ。気性の強い娘ゆえ、知れば必ず他人に言うであろう、その名を言えばお前は不幸になる。他人にうとまれ、間違えば殺されるかもしれない」
「父の名なんて知りたくないよ。あたしは母さまと一緒ならここで一生暮らせたのに」
「チヌや。人は子を育て終えたら、生きる役割は終わるのです」
「でもあたしは里に降りても誰も知らない」
「私の言うことをお聞きなさい。山を降りて里に入ったら大きなお屋敷が立ち並ぶところを目指しなさい。そこで葛城というお屋敷を探すのです。建てたばかりでそこらじゅう、未だ木の匂いがムンムンするでしょう」
「葛城の屋敷を・・・。わかるかな」
「今日はそのお屋敷の前に多くの人が立ち並ぶはず。お前もその列に並ぶのです」
「並んでどうする」
「お前がそこに並べば、母の役目は終わりじゃ。あとはひとりで生きていくのです」
チヌは竹を割ったような性格の娘であった。食料を探すのにも不安があった。決心した娘はさっさと山を降りた。
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