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ここ最近、母は物盗られ妄想をよく発症していた。
クレカを渡すと勝手に不要な物を買ってくるため、私が管理していると、「マリナに財布を盗まれた」などと近所へ喚き散らす。
そのせいで大喧嘩に勃発するなんて日常茶飯事だが、今は上機嫌に鼻歌を歌っている。
よほど絵が楽しいのだろうか。
しかし整理が大変なため、絵を描くならタブレットを使ってほしい。
まあ、母の世代ならばアナログにこだわる人もいただろう。仕方ないか。
「お母さん、今は何を描いているの?」
「これはね、思い出の貝殻。昔よく遊んだ海で見つけたの」
「あれ、お母さんって海の近くに住んでいたことあった?」
この家は内陸県にあり、母はこの地域で生まれ育ったと聞いている。
同郷の父と結婚してすぐに私が生まれて、リモートワークが主だった両親は他県に移住することもなかった。
母が地元から離れる機会は今までになかったはずだ。
「七歳の頃ね、一ヶ月だけ鎌倉にいたの」
「へぇ、初耳だわ」
母が低学年の頃といえば、世界を脅威に陥れた、あの未曾有の感染症が大流行した時代だ。
そのことに関係があるのは容易に予想がつく。
「当時ね、一緒に住んでいた家族が私以外みんな、あれに感染しちゃったのよ」
「え、それで隔離するために?」
母は「そうよ」と懐かしむような柔らかい表情で、貝殻に細かい模様を描き込んでいく。
「家族と一ヶ月も離れて暮らすなんて、七歳には辛いね」
「あら、そうでもなかったわよ」
貝殻の絵に、人の手が描き加えられた。
「鎌倉にはね、友達がいたから」
「へぇ」
確かに友達がいれば寂しい気も紛れるのだろう。
母はスラスラと絵を描き終えていた。
貝殻のネックレスを、対面している相手の首にかけようとしているシーンのようだ。
ネックレスの両端を持っているのは、小学生くらいの子どもの手。
相手の顔はスケッチブックから見切れており、髪の長い女の子であること以外はわからない。
この女の子が、母の子どもの頃の友達なのだろうか。
「マリナさん、お待たせしました」
アキがおかかのおにぎりと、アサリのたっぷり入った味噌汁を持ってきた。
お盆をテーブルに置くと、彼女は母の絵に目をやった。
「わぁ、お母様。素敵な絵ですね」
「でしょう?」
「はい、とっても」
「この貝殻のネックレスはね、友達との大事な思い出なのよ」
アキと母は楽しそうに会話をしている。
母が上機嫌なのは、確かにアキの人柄の良さゆえだろう。
しかし私が依頼したのは介護と家事であって、母の機嫌をとることではない。仕事を怠けてもらっては困る。
私は静かに味噌汁をすする。
疲れた身体に染み入るが、アサリを食べると「ジャリ」っとした不快な食感が口に広がった。
はぁ、この家政婦は砂抜きも十分にできないのか。
私は黙って味噌汁を飲み干した。
アサリの貝殻だけが、お椀の底に沈んでいた。
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