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むこうがわ
それはとても暖かな日でした。
どこまでも続くこの広い大地で今日もただ一人、月を眺めていました。
ここは「彼」の願いが創り出した、星空のむこうがわに浮かぶ緑の山の頂上です。
私はこの2つの世界を繋ぐこの場所で「みんなを見ていたい」から風と追いかけっこをしていました。
「彼」は今、この頭上に続く星空のむこうがわで前へ、前へと歩んでいます。
贖罪を続ける、「私を殺した彼」をここで見つめ続けていてわかった事があります。
あの人はきっと、私を幸せにしたかっただけなんです。
彼が私を殺したのは私が不幸せになる前に助けるためだった、んだと思います。
何度も裏切られて、何度も人を信じて、生きてきた。
彼は他人と触れる事が怖くて仕方なかったんです。
どんなに信じたって信じてくれる訳じゃなくて、
だからこそ幸せがずっと続くかもしれないと信じられるはずもなかった。
彼の中での幸せは有限なものでしかなかった。
だからあの時の渚君の行動を恨んでいたんだと思います。
裏切られる私の姿を見たくなかった、んです。
根拠なんてないですけど。
私が死んだあの日、一人になりました。
孤独を知りました。
何も知らなかった私はあの時、私を1人にした彼を心の底から恨みました。
でも、どうすることもできなかった。
泣くことしかできなかった。
あの時、私を助けてくれた彼に何も伝えられなくなってしまったから。
そんな時、彼は雨にうたれる事を選びました。
「まだ死んではいけない。死ぬなんて俺には勿体の無いことだ。だから俺は永遠にこの星空で進み続けることを選ぶ。」
「今まで生きてきた軌跡を確かなものにするために。」
そう思った彼は私に暖かな大地を与えてくれました。
その雲の海から1つ突き出ているこの山の上で今度は雪を踏みしめて歩く君を見ていました。
でも、君の姿の代わりに感じたのは別のよく聞き覚えのある泣き声だけ。
その声は暖かくは無くとも、確かに温もりを与えてくれました。
それはこの草原を少し走った先にある小石を並べて遊んでいたあたりの場所から聞こえてきました。
フサフサした、やわらかな緑の大地を踏みしめてそこへと向かうと、
そこには、あの時の君がいました。
君は風になびく草原から離れた場所に浮かび、あの時の私のようにして泣いていました。
気にもしていなかった鼓動が弱くなっていくのを感じました。
全体的に短めな髪型をした、少し子供っぽい見た目の君。
風ですぐ崩れては治そうとする前髪の癖毛も変わっていませんでした。
私は、彼がなんでここに居るのか。
なんで泣いているのか。
そんな事、微塵も考えずに君の事を見ていました。
大切な人ほど遠くにいるんだ。
あなたに触れたい、そう何度思ったか君はきっとわからないんだろうね。
なんかい、君のこと考えてたか、わからないよね。
君はきっと、
君のこと、
うん。
視界が、揺らいだ。
こんな感情経験したこと、無かったから。
星空のむこうがわにいた君への想いは、
建前でもなんでもなくって。
ごめんなさい。あなたに触れられない。
そんな目で私を見ないで。
君の瞳は私の閉じ込めた心を壊してしまうから。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
君のこと、幸せにできなかった。
君の渚を、守れなかった。
やっぱり私、死にたくなかった。
しかし、どんなに口を動かしても彼に思いは伝わりませんでした。
伝えたいのに。届けたいのに。
お互いに思いは届けられない。
お互いに近づこうとすれば離れてしまう。
どんなに叫んでも、風が全てを連れていく。
その言葉を、ずっと伝えたかった。
今、伝えたいだけなのに。
決して越えられない境界線がそれを拒んでいました。
その正体は生と死の絶対的な隔たりでした。
ただ、
彼らはそれをも越えた場所で、
ずっと繋がっていました。
彼らの心は
誰にも触れられない場所で
確かに繋がっていたのでした。
例え雪が降っても、
2人でずっと生きていくと信じていたから。
そうしているうちに、2人は近づくことを諦めました。
追いつけない事実を受け入れてしまったのです。
そしてゆっくり2人が顔をあげると、
お互いの涙の粒が見える程の場所に
いつだか辿り着いていました。
2人は目を、心を交わしました。
いつからか2人の涙は止まっていました。
互いに涙の残した軌跡を撫でると、あの冬の日に叶わなかった誓いを交わしました。
しかし、彼らの願いは叶いませんでした。
渚の身体は地面から更に上へ、上へと昇っていこうとするのです。
彼は初めは私を掴もうと手を伸ばしました。
でも、彼はすぐにそれをやめました。
彼女のいる所にはまだ往けない事をわかっていたから。
彼は藻掻くのを止めるとはにかんだその表情で息継ぎをするように_
今度は二人同時に何かを呟きました。
そして少し驚いた表情をすると、2人は微笑み別れを受けいれました。
彼は星空のむこうがわへ、消えてゆきました。
無限に広がるかの様な星空が遠くに行ってしまうほど、君から離れていくほど、身体中の痛みとけたたましく鳴り響くサイレン音が強くなってゆく。
やがて君を想って翔んだあの白い建物の屋上が見え、雪の降らないこの街が視界の隅からゆっくりと現れた。
まるで走馬灯の様にゆっくり、ゆっくりと地面へと辿り着いてゆく。
彼の体は先程の落下の衝撃に悶えていた。
この少しの時間で、何かを見た気がする。
でも、何でだろう。
何も思い出せない。
さっきまで何か見ていたはずなのに。
何も思い出せない。
サイレンの音が複数ある事に気がついた。
どれも聞き覚えのあるものばかりだった。
身体中の痛みが強くなり、周りに警察や救護隊員が取り囲んでいることに気がついた。
痛い、痛いその首をゆっくりと動かし周りを見渡そうとする。
ずらり、と野次馬が並ぶ規制線の奥には僕なんて差し置くかのように女性アナウンサーがカメラを向けられている。
そんなこと、どうでもいい。
何か、あの時の何かを思い出したいのに。
何で、なんでこんなにも想い出そうとしているのかすらも分からないけれど。
でも、心の中にはあの時感じた君の体温が確かに残っていたんだ。
あの時、伝えられたあの言葉。
声が無くとも、音がなくとも届いたあの言葉。
どこの誰かも思い出せない、君に捧げた言葉。
彼の目にはとても暖かな雨粒が残っていました。
それは頬を撫でるかのように、
ゆっくりと、
ただ、安らかに流れていきました。
”いきててくれてありがとう”
そうして彼女は1人、
静かなこの山を下っていきました。
それが消えてなくなるまで、
ただその星空を見続けながら。
彼女は、もう1人ではありませんでした。
さようなら。
またいつか、2人で会いましょう。
おしまい。
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