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 午後十一時過ぎ。スマホの通知が不意に鳴った。自室にて、特に鍵盤をなぞるでもなく、ただただアップライトピアノの前に座ってコンクールの楽譜を眺めていた私は、振り返って机の上のスマホを確認する。 『この曲! 弾ける!?』  軽音楽部の村川さんからだった。続けてYouTubeのリンクとバンドスコアのスクショ数枚が送られてくる。曲名、知らない曲だ。譜面を確認する前に、まずは音楽を再生。  女性ボーカルの高い入りとキーボードから始まって。イントロが終わると一気にギター二本とベースが鳴り響く。イントロだけだとピンと来なくて、そのまま一番を聞ききる。そして譜面を確認。  再び曲を流して、二番が終わる頃に私は返信した。 『曲ははじめて聴きました。弾ける?というのはこの曲のキーボード奏者を探してるってことですか?』 『うん。この曲キーボードがむずくて』『たけとみさんなら弾けるんじゃないって芝とか、きりい先輩と話してた』  もう一度譜面を眺める。アップテンポな曲調で、とりわけキーボードは音数が多い。 『八月の他高校合同ライブか、十月の文化祭。どっちに向けた曲として考えてますか?』 『八月だよ~』  壁にかけたカレンダーを確認する。合同ライブは八月三日。ピアノコンクールの予選会は八月一日。  日付が近すぎる。練習はなんとかなる、というより、コンクールの練習時間をなんとかすることはできるかもしれない。けど。 『ごめんなさい。ピアノのコンクールと被ってて、セッションの時間もなかなか取れないと思います。村川さんがやってみてはどうですか?』  不快にさせないかと文章を何度も何度も見直してから、猫が頭を下げるスタンプを添えて返信。スマホの画面のライトを落とす。もう夜も遅いし返信はないだろう。蓋を開けたままのアップライトの前に戻ろうとしたところ、予想外に再びスマホが鳴った。 『めっちゃむずいし無理! たけとみさんならいける絶対。芝はたけとみさんにやってほしいなって言ってた!』  お願いします、と上目使いをしながら手を合わせる犬のスタンプともに向けられたメッセージ。  私が軽音楽部に関わるきっかけも、村川さんからだった。昼休みに音楽室で私がピアノを弾いていたところに村川さんが声をかけてきたのである。 「全然難しくって、弾けなくって」相談に乗ってくれないか。と差し出されたバンドスコアの、村川さんが難しいと言った箇所を弾いてみせて運指のアドバイスをした。そのことが、村川さんにとってはとてもインパクトのある出来事だったらしい。  村川さんは私が部活に所属していないことを知ると、何度私に断られようとも熱心に勧誘してきた。いわく、『こんなに弾ける人はじめて見た』。私は私で、こんなに求められるのなら、と入部を決め、今に至る。  入部してからもコンクールとかピアノレッスンを理由に部活動に熱心でなくても、村川さんも、芝くんや桐井先輩といった他の部員たちも快諾してくれた。あんだけ弾けるんだもの、ピアノ頑張ってね。と。  求められるのは嬉しい。嬉しいけど、いや、嬉しいからこそ……。 『少し考えさせてください』  私は返信をすると今度こそスマホの電源を落とし、そのまま横にあるベッドに倒れ込む。……あ、いけない。ピアノの蓋を閉めてなかった。  体が、というよりも頭が重たくて起き上がる気になれない。片付けは明日の朝にやろう。ベッドに横になったまま、ピアノをぼんやりと眺める。  一九七二年製スタインウェイのアップライトピアノ。ウォルナット調は日本では希少で、母から聞いたところによると、当時祖母が母のためにわざわざ新品をアメリカから取り寄せたらしい。  このピアノは元々母のものだったのだ。母から譲られて、今は私の部屋にある。  母はこのピアノとともに成長し、そしてピアノ教師として成功した。  ……私は、どうなのだろう。 『清葉も、ピアノとともに生きていくのよ』  そう言って母は、ピアノを小学生だった私に託した。  四十歳を過ぎた頃に、それまではピアノで精一杯で自分のことを考える余裕もなかった母が、家族と跡継ぎが欲しいと望んで、生まれてきた。それが私だ。  そうやって出来た子だから、私は大層期待されていた。そして以前の私は、思いに応えるだけの力があった。未来に期待感を持っていた。  ……あのときの期待感はどこに行ってしまったんだろうな。今となってただただ重いだけで――いや、期待はもうほとんどされていないだろうけど――、応える力もない。  それでも、すがりつきたい自分がいる。ピアノがなければ私はなんなのだろう。自分の存在を認めてもらえない、そんな気がして。  まぶたを閉じる。明日起きてすべてが綺麗さっぱり無くなっていれば、楽になれるのにな。ありもしない世界を夢想しては、今晩もまどろみに落ちていく。
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