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七月も半ばを過ぎた。高校は定期テストが終わって、実質的には夏休みモードに入っている。今日からは午前中で授業も終わりだ。
「清葉ちゃん、どうぞー」
「ありがとうございます」
キーマカレーのおかわりを私の目の前に置いて、雪歩先生は向かいの席に着く。
学校が早く終わった日は時々、こうやって雪歩先生のおうちのリビングでお昼ご飯をいただいたあとレッスンを受ける。雪歩先生のご両親がご在宅なら四人で食卓を囲む。
雪歩先生の好意に甘えているなあ。自覚はある。けど、この時間が私にとっては大切だった。中学生に上がって以降、母と食卓を囲む機会も減った分、誰かとともにご飯を食べる時間に飢えているのかもしれない。
庭にはひまわりが咲いていた。蝉の声も日増しに力強くなっていく。夏も、いよいよ本番を迎えつつある。
「このキーマカレー、お肉じゃなくて鯖が入ってて、私ははじめて食べたんですけど美味しいですね」
「ほんと? よかったわ。テレビで見て試してみたの」
雪歩先生は世話好きなのだろうな。カレーを頬張りながらそんな風に考える。他の生徒さんに対してどう接しているのかは、多くの生徒をとらない教室の方針もあり、また、合同レッスンもほとんどしたことがないので分からない。けれど、たまに顔を合わせたときはみんな雪歩先生になついている様子が見てとれた。
――雪歩先生の教室には、同門の他の先生のもとで『戦力外通告』を受けた生徒たちが集まる傾向にある。先生と反りが合わず問題行動を起こしてしまうとかコンクールで結果が出ないとか、要するに他の先生が匙を投げた生徒の中で、それでもピアノを続けるという決断をした人たちが来ているのだった。私もそんな生徒の一人だ。
雪歩先生のような若い先生は問題児を任される……もとい、押し付けられることが多い。母もキャリア初期は同じことをしていたという。生徒たちを立ち直らせコンクールへ送り返し、全国大会で賞を取らせ、その実績をもってより優秀な生徒を獲得し、さらに教師としての成果を出す。それを繰り返して一門の中の序列が上がっていく。ここは、そういう仕組みのもとに成り立っている。
しかしどういうわけか、私が心配する立場にはないけれども、雪歩先生は自分の生徒の成績に無頓着だった。
「今日のレッスンはどうしましょうか~。予選のバッハとラフマニノフ、あと本選用のショパンを聞かせてくれたりするのかな?」
お昼ご飯を食べ終わって、キッチンで洗い物を二人でしながら雪歩先生は私に尋ねた。『今日の晩ご飯はなににしようか?』くらいの、軽い話っぷり。
これが母だったら今日のレッスンの段取りを事細かに指定してくる。あと、本選用の曲はそろそろ仕上げに入っていないと論外だ。母のレッスンはひたすらに『勝つ』ために最適化されている。
洗い終わった皿を雪歩先生から受け取って拭く。ためらいつつも、私は答えた。
「その、レッスンの曲なんですが。ショパンはほとんど練習していないんです。予選の二曲に集中します」
部活で一曲担当することになったんです。と最後に付け加えると、雪歩先生は少し驚いたように丸い目をさらに丸くした。
今度のコンクールは地方ごとの予選、本選、最後に全国大会という流れになっている。つまり予選だけ参加して、受かっても辞退しようという考えだ。本選の曲は練習しても受からないことは自分の実力からして明白だった。
「あ、なるほどねぇ」
「事前に一切、お伺いも立てず。すみませんでした」
「清葉ちゃんが決めたことだもの。わたしは応援しているわ」
頬にえくぼが出た優しい顔で雪歩先生は笑う。
雪歩先生は怒らない。窘められたことは多少あるけれど、師事して以降怒られたことは一度もない。近い目線で、一緒に考えてくれる。……雪歩先生に会えたのは幸せだと思う。本当に。
私が頑張らないと雪歩先生の一門の中での地位が下がることも考えられるのに、雪歩先生は私の意志を優先してくれる。さしたる目的もなく、わがままを言うだけの、私の意志を。
初めから雪歩先生に師事していれば、今ごろ違う未来や目標を見ることになったのだろうか。可能性に思いを馳せてみれば、心臓のあたりがチクリと痛む。
洗い物を片付け、レッスン室に行こうとした、その矢先。不意に玄関の呼び鈴が鳴った。
「はいー。……あら。こんにちは~お世話になってます」
リビングのインターホンを確認した雪歩先生。応対の声が一瞬強ばって、そのまま玄関へと行ってしまった。
誰だろう。という私の疑問はすぐに氷解する。
バタバタと廊下に響く足音。勢いよく開かれるリビングの扉。
目が合うと一気に詰め寄られ。
次の瞬間、自分の体が床に投げ出されていた。
「何で黙ってたの!」
目の前には、顔を上気させ肩で大きく息をする、母の姿があった。
「……何のこと?」
なんでここにいるんだろう。出張から帰ってくるの、今日の夕方のはずなのに。……わざわざ、私を問い詰めるために?
「コンクール! あんた、エントリーしてたじゃない。何で黙ってたの!」
しらばっくれるのも難しそうだ。それでもこの期に及んで逃げ道を探してしまう。
ぶたれた左頬をさする。視界がチカチカする。口の中に広がる血の味。吐きそう。
「今年は受けるのならレッスンつけるよって、ママ言ったよね。何で言わなかったの?」
立ちなさいと言わんばかりに、母に右腕を引っ張られる。
「佐葉子先生、ちょっと落ち着いてくださいな」
駆け寄って来た雪歩先生。母は雪歩先生をキッと睨んだ。
「よくもあなたがそんなことを言えたものね。私はあなたを信じて清葉を預けたというのに、何? コンクールも中途半端。挙げ句清葉が部活にうつつを抜かしても止めもせず。黙っていようかと思ったけど限界だわ。ねえ、何? 二人してこの体たらくは」
「違う。雪歩先生は、悪くない。私が全部悪いから」
ひゅうひゅうと口で息を立てながら、言葉を絞り出す。「お願いだから、ママ。雪歩先生を責めないで。私のせいだから」
「あなたはまだ頑張れる。どうにか立ち直って弾けるはず」
「無理だよ! ……もうとっくに無理だよ。ママの望み通りにはならない」
「……あなた、自分が何言ってるか分かってるの」
「分かってるよ。……でも、無理なんだよ。二年前からもう。頑張れない。ママのように、私は、なれない」
――お願いだから、ママ。諦めて。
言わなかった。言えなかった。数年分積み上がった思いが一気にあふれ出して、止まらない。
「……清葉」
母は私を見下ろすようにして立ち尽くしていた。
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