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「調子どーよ」 「へっ?」  突然横から話かけられ、私は思わず一歩後ずさっていた。そこにいたのは村川さんだった。 「ごめんごめん。そんなに驚いた?」と軽く右手をひらひらさせつつ、村川さんは私との距離をぐいぐいと詰めてくる。 「いえ、大丈夫。どうかしま……どうかした?」 『敬語でしゃべるの禁止!』と朝方一喝されたのを思い出し、口調を改める。 「竹富ちゃんとお昼ごはん一緒に食べたいなーって。お誘いに」 「お昼? えっ、あっ。もうそんな時間?」  スマホを確認すると十二時の少し前。つまり、部活の練習に使っている視聴覚室から出てきて一時間が経っていた。時間の経過に気づかぬままに私はぼうっと廊下の窓から中庭を眺めていたらしい……特に景色を見るわけでもなしに。中庭ではテニス部が素振りの練習やストレッチをしていて賑やかな様子なのだけど、おそらく私がここに来た当初から響いていたその声も、私の耳には届いていなかったみたいだ。 「竹富ちゃん、どーお?」 「是非。あ、でも買いにいかないとお昼ご飯がなくって」 「わたしも同じ。せっかくだし購買まで一緒にいこ」  村川さんは口をパカッと開けて笑った。八重歯がちらりと覗く。快活を絵に描いたようなその笑顔。私は村川さんの少し後ろについて、一階まで続く階段を下りていく。 「ところで」二階に下りたところで村川さんが足を止めて、こちらに振り向いた。赤茶色のポニーテールが頭の動きに合わせてばさっと揺れる。「なんか部活で悩んでる? もしくはシンプルに体調悪い?」  心配が見えるような村川さんの声色。 「正直むっちゃ顔色悪いよ。顔、白い」 「え……そう?」  悩んでいないわけがない。でも、村川さんに言うようなことではない。絶対に。私のことは私にしか分からないのだから、答えが出てくるわけでもないし、賛同がもらえるわけでもない。  だけれど、ふと、何故だか無性に言ってみたくなったから。 「村川さんって、バンドがやりたくなって中学からキーボードを始めたんだよね?」 「そうだよー」 「どうしてキーボードだったの?」 「うち、兄貴がいるんだけどね。その兄貴が先にキーボードやってたっていうのと、あとはよく聴いてるバンドの曲のキーボードがめっちゃかっこよくって、憧れたのがきっかけかなー」  トントントン、と軽やかなリズムで村川さんが階段を先に降りきった。慌てて私もついていく。 「村川さんは、楽しい? キーボード弾くの」 「楽しいね」 「プロを目指していなくても?」 「うーん。考えたことなかったなあ。やりたい曲をみんなで演奏していられたらいいのかもしれない」  ――やりたい曲があった。憧れた。  私にそんな瞬間があっただろうか。いや、あったのかもしれない。思い出せないだけで。  あるいは思い出したくないのかもしれない。憧れがあった。夢があった。『楽しい』と思った瞬間があったことを。  楽しくなくっても弾かなきゃいけない。だって、竹富佐葉子の跡を継がないといけなかった。ずっと、『誰かのため』を求められてきたから。 「部活動というか趣味というか。全然わたしはまだ弾けてないけどさ、楽しいからやってるって感じかも。だから竹富ちゃんにも、もっと楽しくなってもらえると嬉しいかな」  楽しいのは趣味だから。趣味だったら、ずっとずっと楽しいままでいられる。いっそ、趣味だっていいじゃないか。  でも、……私に、楽しむ資格なんてあるのだろうか。  内臓が上下に揺さぶられるような心地のまま、一階にたどり着く。 「竹富ちゃん。キツかったら午後お休みでもいいよ。練習日まだあるしさ」 「ううん、大丈夫」  怪訝な顔をする村川さんに私は答える。笑ってみようとするけど、口角が上手く上がらない。  スカートのポケットに手を突っ込む。すると、ポケットの中に入れたスマホがちょうど震えた。 『こんにちは! 清葉ちゃんの高校の近くにたまたま寄ってるんですが、よかったらお昼ご飯一緒しませんか~』  メッセージは雪歩先生からだった。 「……ごめん。ちょっと今、知り合いに呼び出されて、行かなくちゃいけなくなって。お昼誘ってもらってたのに、ごめんね」  私は村川さんの横を駆けて昇降口へと急ぐ。  楽しむ? 趣味? ――無理なことじゃないか。  私がどれだけふがいなくて愚かでも、私の行動には他人の運命がかかっている。  私だけが、逃げるわけにはいかない。たとえ抱え込んで、沈んでしまうとしても。
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