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「ちゃんと寝られてる?」  ドリンクバーから二人分のホットコーヒーとともに戻ってきた私がテーブルに座るなり、雪歩先生はそう言った。 「そんなにひどい顔してますか」 「目の下の隈、なかなかすごいことになってるわよ」  雪歩先生はちょっと顔をしかめる。村川さんにもさっき同じことを言われたし、自分で思っているよりもひどい状態なのかもしれない。  どこにするか悩んだ末に、一番分かりやすいところにあった駅前のファミレスで集まることにした。お昼時で混み始めていたれど、運よくほとんど待たずに入れて、今しがた食べ終えたばかり。ピザやスパゲッティの空皿をテーブルの隅に寄せる。  夏休みも盛りの昼間ともあって、店内は親子連れや学生でいっぱいだ。騒がしさのある、そんな空間の中で、私たちの回りだけが不思議と静かに思える。  私は、横に置いた分厚い紙袋をちらりと見やる。中身は雪歩先生から預かった、母の原稿だ。存在感がずっしりと、重たい。 「部活のほうは順調?」 「はい。とはいえ、今日が三回目のセッションなのでまだまだこれから詰めないといけませんが」 「そっかあ。うんうん、それはとってもいいことね」  目尻にシワを寄せる雪歩先生。朗らかだ。これまでと、一切変わらず。……全然様子が変わらないから、私のほうが心配になる。  ――少なくとも、私は、雪歩先生に言わないといけないことがある。 「雪歩先生」  口から飛び出しそうな心臓を飲み込むように、深く息を吸った。 「本当に、申し訳ございませんでした。母と私の喧嘩に巻き込んでしまったこと。そして、なにも……何ひとつ成果を残せずに雪歩先生の教室をやめることになること。雪歩先生の望む結果をもたらすことができなくて、本当に、申し訳ございませんでした。許されることではないと分かっていますが、謝ることしか……こんな私にはできない、ので」  座ったままではあるけれど、私は精一杯頭を下げる。 「あら。教室やめちゃうの?」  思わず私は顔を上げる。雪歩先生の顔からは目をそらす。  だって返ってきたのは、あまりにも思いもしなかった言葉だから。体が強ばる。訳が分からない。 「ピアノをやめるのですから、教室もやめるものですよね……?」  やめるのが普通だ、どう考えても。母の教室ならやめると同時に追い出されるわけで、つまり一門の中ならどこも同じに違いない。コンクールに出なくなった生徒は所属する資格がないのが、決まり。教室に残っても戦果はあげられないのなら指導の時間も無駄になってしまうのに。  黙りこんでしまった私を見てか、雪歩先生は少し考え込むようにして、それから再び口を開いた。 「コンクールに出ない、音大を目指さない。という話と、わたしの教室を辞めるという話はまた別の話よね。わたしは全然、清葉ちゃんが望むのならいてくれていいのよ」 「……は、え。でもそんな」 「あ、佐葉子先生に説明は必要ね~。うちに来た理由は音大受験のリクエストがあったし、清葉ちゃんの進路に関わる話だしね。だけどきっと、オッケーしてくれると思うわよ」 「ですが、でも。その……」  雪歩先生の発言の意図が分からない。ゆっくりと視線を合わせる。……どうして先生は、微笑んでいられるのだろう。 「雪歩先生には迷惑かけて、母には……見放されて。雪歩先生は優しいから、こんな私でも残ってもいいっておっしゃってくださってると思うのです。あの母から私のことを預かってるから、というのも理由でしょうか」 「そんなこと、わたしは思っていないわよ?」 「……っ、ですが。迷惑をかけ続けることになるんですよ」  ぐるぐる回るばかりの頭の中から、私は言葉を詰まらせながらも必死に絞り出す。 「そんなの……許されるものではないです。母の後継者にもなれない。一門に貢献できない。役立たずの私がいる意味なんかなくて。そんなの」  膝の上に置いた握りこぶしに、ぽたりと、目からこぼれた滴が落ちた。 「……そんなの、私が、許せないです」  やめたいって心の底では思いながらも、ずるずると続けてしまったこと。私が中途半端なせいで、雪歩先生の立場を悪くしたこと。母の計画を狂わせたこと。――自分かわいさでいたせいで、どんなに迷惑をかけてしまったことか。  それなのに。ここにいていい。なんてそんなの、私にばっかり都合がよすぎるじゃないか。  ……ああ。そっか。私自身が私を諦めきれてないんだ。 「恥も外聞もなく、居残り続けたせいで。みんなが迷惑していて……」 「違うわ。清葉ちゃん、それは違う」  ふう、と短く息をつく雪歩先生。 「三十年以上わたしは伊崎一門でいろんな人を見てきたわ。教室で鍛え上げられた人たちは華々しい活躍をしている。でも、成功する人よりやめる人が遥かに多い。ここは過酷なところで、立ち直れなくなるくらい身も心もぼろぼろになる人も多い。とってもね。……まるで、出会った頃の清葉ちゃんみたいに」  言葉を選ぶように。雪歩先生はゆっくりと語りかけてくる。 「清葉ちゃんはお母さんが佐葉子先生っていう一門でもトップクラスの実力で、かつ屈指のシビアさを持つ先生に最初から関わらざるを得なかったし。佐葉子先生クラスになるとある程度他の教室で育ってきた選りすぐりの優秀な子たちが、次のステップアップのために通うとしてそれって、清葉ちゃんの中でふかーい刷り込みになっているんじゃないかなって、わたしは思うの」 「刷り込み、ですか」 「うん。刷り込み」  水色のハンカチを握った雪歩先生の左手が伸びて、熱を持った私の目許を拭った。優しく柔らかなその感触。  お皿を下げに来た店員さんが、私の顔を見て少しビックリしたようだった。けれど、なにも言わずに去っていった。テーブルの上がこざっぱりとする。 「……私は、母の跡を継ぐために生まれてきたようなものです。そうだと、思ってます」  乾いてひりつく喉に、コーヒーをゆっくりと流し込む。コーヒーはすっかり温くなっていた。 「ですので……これが刷り込みなら、私は、今まで何のためにしんどい思いをしてきたのでしょうか」  ピアノを弾くことに疑いを持つことは、高校受験の頃までなかった。道を外れようとする今にあっても、ピアノは自分から切り離すことのできないものだ。  ――本当に? 本当にそうなのか? 「コンクールが終わったら言わなきゃ~と思って、清葉ちゃんに一つ内緒にしてたことがあってね」  雪歩先生は私のものと同じく温くなっているであろうコーヒーにミルクを入れて一口飲んでから、こう話を切り出してきた。 「実は、今年の秋から一ヶ月のレッスン日を減らして教室を縮小することにしたの」 「……っ。それは、私が不甲斐な……、いえ、どうしてでしょうか」 「清葉ちゃんはさ、音楽療法って知ってる?」 「音楽を使うリハビリテーション、というくらいしか」 「そう、それのことね~。音楽療法士って資格もあってね、その資格を取ったのよ。そこから縁もあって、病院で働くことが決まってね」 「なるほど。病院関係にも一門のつながりがあるんですね」 「ううん、そうじゃないわ。資格を取るために通ってたスクールからのご縁で、全然関係ないところからよ」 「え……」  我ながら呆けた声が出る。「ならなおさら、どうしてですか」  怖くないのだろうか、雪歩先生は。クラシックピアノの世界で芽が出る生徒が手元にいないこと。一門の本流から外れていくこと。自分から、一門での存在を希薄にしようとすることは。 「偉そうに言ったけど、刷り込みをされているのはわたしも一緒なのよね~。精神を削り痩せ細らせて、死にそうな顔しながら弾いている子たちがいて。それを見て、別の道を探してみたくなって」 「別の、道」 「清葉ちゃんは」一拍置かれる。「お母さんの人生を背負う必要はないのよ」  ――それは、思いがけない言葉だった。 「清葉ちゃんのピアノは清葉ちゃんのためにあるんだから」  雪歩先生はにっこりと微笑む。 「他のことをやるためにやめたっていい。バンドをやったっていいし、音楽療法士なんてものもある。あくまでもクラシックピアノを続けたいなら私のところにいてもいいし、音大に行きたいって思うのなら、ここ関東だけじゃなくて、関西にも九州にもどこだってある。音楽をやりたいのならギターもドラムもいろいろ、楽器はたくさんある。今言ったこともほんのちょっとの例でしかないわ。やれることはいっぱいいっぱいある」 「母は跡取りがいなくなって困っているのに。私が楽しんでいいのでしょうか」 「清葉ちゃんは清葉ちゃん。お母さんはお母さんよ。清葉ちゃんがいないならいないで考えてると思うわ。大人なんですもの」  肩をすくめる雪歩先生。あっけらかんとしたその言い様。  黙りこんだ数十秒を、BGMとして流れるカンツォーネが埋めていく。不安の闇に包まれた心の中に小さな光が差すみたいに、ギターとバリトンボイスが頭に響く。 「清葉ちゃんの前に未来はいっぱいあるんだよ。ピアノを使うにしても、使わないにしろ」 「未来……」 「うん。未来。清葉ちゃんがやってみたいこと、いっぱいチャレンジしてみてほしいな。それが、わたしの願い」   わたしも頑張るから、お互いになんとか頑張ってみましょう~。と、雪歩先生ははにかんだ。  テーブルの上に置いた拳をぐっと握る。やりたいこと。私の、やりたいこと。あるだろうか。見つけられるだろうか。  ピアノを弾かない自分になにが残っているのか。一からなにを作り上げていけるだろうか。音楽はしんどくなるだけだろうか。楽しくなれるだろうか。まったく分からない。  ――分からないけど……今のままではいたくない。この気持ちを逃がしたくない。 「私にも、見つけられるでしょうか。自分のやってみたいことを」 「絶対できるわよ。だって、わたしの自慢の生徒さんだもの」  雪歩先生は両手で私の右手を包み込んだ。その温かさに、私の目からはまた涙が溢れだした。
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