赤い天使:8

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赤い天使:8

「消えたよ」  鹿島先生がそう告げるまで、俺たちは息を殺して微動だに出来なかった。不意に、うう、と広石が嗚咽するような声を上げ、ガシャンと足元にビデオカメラを落とした。 「うわあああ!」  そう叫び声を上げると、広石は清ラが呼び止めるのも聞かずにそのまま家を飛び出して行った。俺は追いかけようとする清ラの肩を掴み、 「おい待て! 聞きたいことが山ほどあるんや!」  と無理やり振り向かせた。  清ラは俺の手を振り払い、 「ああ、逃げも隠れもしないさ」  と言った。「話がしたけりゃ病院跡地まで上がって来い。とびきりの答えを用意して待ってるぜ」 「はあ?」  困惑する俺の視線を振り切り、清ラは広石を追いかけて行った。 「姫倉さんは大丈夫ですか」  言いながら、鹿島先生が歩み寄って来た。 「突然意識を失ってしまって」  答える朝火先生の傍らに膝をつき、姫倉の手首を持って容態を確認する。 「頭は打っていませんね? ならこのまましばらく寝かせといてあげましょう。東京から時間をかけてこの村までやって来た挙句、恐れていた藤堂さんの死に直面してしまった。怖い思いもさせてしまいましたから、神経が持たなかったんでしょう」  鹿島先生、と俺が声をかけると、 「今は」  と先生は声のトーンを上げて俺に先を言わせなかった。 「少し落ち着きましょう。焦っても仕方がありません」 「そやかて」 「真実というものは追うと逃げるんです。しかしこちらが辛抱強く見つめ続けてやれば、やがて真実の方からこちらに振り向いて来る。今は、辛抱の時です」 「そやかて!」 「もうすぐです」  鹿島先生は立ち上がって俺を見つめた。俺の知ってる、いつもの先生の目だった。優しい目だった。「藻波くん。もうすぐですよ」  何がや、と呟いて俺はひとり居間を後にした。  廊下に出ると、奥ですすり泣く子どもたちの声と、緊張の糸が切れてだらしなく蹲っている緑さんと法子さんが見えた。緑さんは、八十を超えた婆さんながら気丈にも手に小振りの斧を握っていた。彼女らはずっと、山中に潜む人殺しの影におびえていたのだ。家の前に現れた、姿の見えない姫倉バーネットに向かって執拗に威嚇していた緑さんと、家の奥から手斧を持って戻って来た法子さんの行動には彼女らなりの理由があった。  だが、実際に現れたものは人間じゃなかった。  もし、ヒキや箒次郎の出現に看護師の書いた日誌や例の写真が関係しているのであれば、この家に化け物を呼び込んだのは俺たちだ。知らなければ一生出会わずに済んだ化け物どもを子どもたちに見せたのは、この俺たちだ。 「クソが……」  俺は怒りのやり場を失って、そのまま小暮家を出た。  所が、そんな俺のすぐ後を朝火先生が追いかけて来た。手には自分のスマホを握って、まるで俺に差し出すようにしながら駆けて来た。 「き、木村さん!」  彼女の手の中のスマホが、ピリピリと甲高い着信音を発していた。目を見開いて激しく動揺している朝火先生に、 「どないした」  と問う。 「こ、この電話、東京にいる友人からなんです。で、出てもいいですか!?」 「はあ!? なんで俺に聞くんや」 「だ、だって占い師でしょ。教えて下さいよ、この電話に出てもいいですか? もう私、何がなんだか」  俺は思わず朝火先生の手からスマホを引っ手繰り、 「ほな、俺が出てええすか」  と言った。 「え? どうして?」 「朝火先生がこの電話に出たら、それが先生の未来になる。でも俺が出たら、それは俺の未来になる。先生が怖いなら、俺が未来を引き受けたろやないか」  無茶苦茶なことを言っているのは分かっていた。正直に言えば、この状況で朝火先生の未来を占うことが怖かったのだ。つまり、単なる言い訳に過ぎない。だが朝火先生は何を思ったか急に頬を赤くして、 「どうぞ」  と言った。  スマホの画面をスライドし、電話に出る。  表示されていた名前は、上羽景子(うえばけいこ)。むろん俺には誰だか分からない。だがこんな夜更けとも早朝とも言える時間に電話をかけてくるのだ。相当気心の知れた関係なんだろう。 「はい」 「え?」 「こちら四方朝火先生の携帯です」 「……誰よあんた」 「お……大阪で占い師をやってます」 「え、木村さん!?」  思わずスマホの画面を見返した。 「木村藻波さんですか! うわー! 初めて声聞きました! でも写真では拝見してました! 声も格好いいですね!」  ――― 写真? 写真て何や。何の話をしとるんやこいつ。 「いや、あのー、分からん、すんません、代わります」  俺は怖くなって朝火先生に電話を突き返した。「大丈夫みたい」 「ええ?」  先生は恐々携帯を受け取り、ゆっくりと耳に当てた。「……景子?」  その後二人はしばらくやり取りを交わした。俺は何となく捨て置けなくなって側で静観していたが、問題がないならこのまま山を登ろうかと思い始めた、その時だった。 「ひとり?」  と朝火先生が言った。「待ってよ、そんなのおかしいでしょ。噓でしょ」  俺を見上げる先生の目に、これまでとは違った種類の恐怖が浮かんでいるように見えた。電話を終えた朝火先生に「ひとり」という言葉の意味を問うと、先生は事態を整理しきれぬ様子でこう説明した。 「私の、小説」 「……ああ、卑忌、やな?」 「投稿サイトでコメント欄が炎上したことについて、景子が運営に問い質したそうなんです。いつまで放置してるのか、作者の気持ちを考えないのかって。もちろん、私が自分のアカウントにログインして全てを削除したり、そもそもコメントを受け付けない設定にも出来るので、運営側だけが悪いわけじゃないんです」 「それで?」 「でも一応、通報案件への対策として、運営側は書き込んだ人間を特定することが出来るんだそうです。もともと、そのサイトにアカウントを作ってる人間じゃないとコメントできないので」 「よう分からんけど、ほいで?」 「ひとりだって言うんです」 「……え?」 「三七十件以上あった書き込みの全てが、ひとりの人間によって行われていますって。運営側からの返答があったそうです」 「噓やろ」  同一人物が何回も書き込んでいるという可能性は考慮していた。それでも、少なく見積もっても五十人くらいはホラー好きの読者が集まって騒いでいると思い込んでいた。それが、たった一人の人間による仕業であるという。 「ほ、ほんまなんかそれ。その運営とやらが適当に噓ついてんちゃうか?」 「コメントを書く際には匿名の選択が出来て、作者には誰が書いたか通知しないように設定できます。ですがアカウントを作っている人間しか書き込めないので、運営側にはどうやってもバレるそうです」 「そ、そうなんか」 「たったひとりで書き込んでいたその人物のアカウント名は……『ウィステリア』。おそらく」  ……藤堂光江さんじゃないでしょうか。
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