赤い天使:7

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赤い天使:7

「ええか」  俺は朝火先生と姫倉を前に言って聞かせた。「ここから先、あんたら二人の前にも子どもくらいの背丈のバケモンが現れるかもしれん。もしそうなっても! ……絶対にそのバケモンから逃げたらいかん。名前を呼んでもあかん」  何の話をしてるんですか、と怯えた顔で姫倉が頭を振る。朝火先生は視線を彷徨わせながら溜息を吐き出し、 「だったら」  と少し怒ったような声で言った。「さっきから連呼してるそのバケモンとやらの名前を私たちに教えないでくれませんか」 「そ、それは……」  ごめん、としか言えなかった。 「もしもその子どもが現れたらその時はどうすればいいんですか!?」  縋るような目で問う姫倉に対し、 「……」  納得してもらえるような答えが俺には思い浮かばなかった。そもそも、最初に箒次郎の話をしてきたのは清ラだ。そしてその清ラは、「奴が現れたら俺に電話してこい」という解決策でもなんでもない捨て台詞を残しただけだった。俺には、どうしようもない。  「木村さん!」  怒りを含んだような姫倉の声に、俺は観念して廊下を振り返った。しかし、 「ピーピュー」  という軽薄な口笛の音を残し、清ラが廊下の奥へと消えるのが見えた。人をおちょくるのも大概にせえよ……! 「清ラ!」  俺が奴の後を追いかけようとしたその瞬間、法子さんや広石、鹿島先生に続こうと廊下の奥へ消えた清ラの背中が、ゆっくりとこちらへ戻って来るのが見えた。  清ラの左手が襖を掴み、ガタンと音を立てる。奴は前を向いたまま後退しつつ俺たちのいる居間に入って来た。 「きよ……」 「おでかけですか~、レレレのレ~」  お道化る清ラの声はしかし、心なしか震えているようにも聞こえた。  サッサ……サッサ……、サッサ……サッサ……  サッサ……サッサ……、サッサ……サッサ…… 「ひッ」  朝火先生が両手で口元を覆う。 「来た」  単なる雑草や草の根の匂いじゃない。土の中で何年も放置されて朽ちたような、これは生き物が腐った匂いだ。 「いや……痛いッ」  姫倉が両耳を押さえたままその場で倒れた。朝火先生がすぐ様抱きかかえるも、すでに姫倉に意識はなかった。 「動くなよ藻波」  俺たちに背を向けたままで清ラが言う。  サッサ……サッサ……、サッサ……ザッサ……  ザッサ……ザッサ……、ザッサ……ザッサ……  廊下を掃く箒、左右に淀みなく揺れ動く先端が見えた。そして現れたのはやはり、頭の大きな子どもだった。 「痛た!」  山で最初にこいつと遭遇した時と同じ、大きな釘でこめかみを刺し貫くような痛みが襲って来た。姫倉が耳の痛みを訴えるのと同様、これが霊障という奴なのだろう。俺はよろめきながらも廊下を睨みつける。  盛り上がった瞼、三日月のようにひん曲った眼。緑がかった土気色の顔。おかっぱ頭。耳まで裂けた口を歪ませて嗤いながら、箒次郎が俺たちのいる居間に入って来た。 「動くな」  と清ラが言う。  逆を言えば、逃げなければ追ってこない。名を呼ばなければ襲われない、ということかもしれない。だが、突然現れて箒掛けをしながら徘徊するグロテスクなガキを前に、何もするなというのは随分とハードルが高い。 「ううう……」  ズキズキとこめかみが痛んだ。  見やると朝火先生も苦悶の表情を浮かべている。弱音を吐かないだけで、彼女も俺と同じ痛みを感じているのかもしれなかった。 「……くッ」  それにしてもなんだ。痛みが強すぎる。片頭痛なんてもんじゃない。世の中には群発頭痛という死にたくなるような頭痛が襲い掛かってくる難病があると聞く。まさにそれだった。こんなに痛いんなら、今すぐ死んだ方がました。今すぐ……死んだ方が……。  ザッサ……ザッサ……、ザッサ……ザッサ……  箒次郎はゆっくりと清ラの前を通過し、俺の前を通り、横たわる姫倉と彼女を抱きかかえる朝火先生の前を通り過ぎた。奴はそのまま部屋の隅まで箒を掛けながら歩いて行くと、やがて板張りの上に放りだされていた日誌と写真を前に、 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」  と気味の悪い声で啼いた。  ガタ、と音がして、見ると部屋の入り口に鹿島先生とビデオカメラを腰高に構えた広石が立っていた。 「ふうぅ、はぁ」  その、広石の顔が恐怖に歪んだ。  清ラがこちらに振り返り、その視線を追いかけて俺も振り向いた。 「見ちゃいけない!」  と鹿島先生が叫んだ。  俺は寸での所で向き直った。  清ラも同様に下を向いている。  朝火先生はこの時、姫倉の頭を胸に抱いて目を閉じていた。  日誌と写真を取り戻した箒次郎が啼いた瞬間、そいつは現れた。  俺は見ていない。  多分清ラも見ていないと思う。  しかし鹿島先生と広石は見てしまったのだ。  箒次郎が壁となり、光の届かなくなった部屋の隅のほんの僅かな暗がりから、女がこちらをじっと見つめていたという。 「先生ッ!」  見るなと叫んだ鹿島先生の目が大きく開かれていた。 「ようやくだ」  と先生は言った。「ようやくだよ谷崎くん。僕たちはついに辿り着いた」 「先生!!」    引御前だ……。
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