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赤い天使:9
多黒山の頂上、精神病院が建っていたとされる跡地には、今はもう何も残っていない。雑草と、忘れ去られた建物の残骸が僅かばかり転がっているだけの、荒涼とした草原が風に吹かれているだけである。
阿含清ラはその草原の真ん中に立って夜空を見上げていた。傍らには、取っ捕まって引き摺られて来たらしい哀れな広石が草むらに座っていた。
「来たか」
俺たちの気配を察して清ラが振り返る。「おや朝火先生も」
さっきまで彼女を知らなかったくせに、平気でこういう言い方をする。
「鹿島さんたちは……家に残ったか。賢明だな」
「えらいお高くとまっとんのー、清ラ。鹿島先生と何を企んでんのか知らんけど、お前みたいなもんに何が出来るんや」
言うと清ラはふふと笑い、
「お前に言われたくねーよ」
と答えた。「広石くん、心配しなくてもいい。俺の側に居る限りは安全だから」
その言葉を受け、草むらに座っていた広石が文字通り清ラの足にしがみ付いた。
「藻波」
清ラが言う。「お前が立ってる場所から正面に森が見えるな? この俺の後ろに広がる鬱蒼とした森が」
「……ああ」
「七年前、この場所で広石くんは世にも恐ろしい怪物を見たそうだ」
あ、と俺の隣で朝火先生が声を上げた。
なんや、と小声で問うと、先生は前を向いたままこう呟いた。
「夜……稲妻」
すると清ラが「おう?」と声を上げて広石を見下ろした。「やっぱり広石くんは有名だね。ここにもほら、あんたを知ってる人間がいた」
「何の話や!」
「叫ぶなよ藻波。怖がってると思われるぞ。怖がるな」
「お前なァッ」
「広石くんは有名な探検家だよ。全国各地の心霊スポットを渡り歩いて記事を書き、自分のサイトで写真付きで投稿してるんだ。朝火先生が今言った、夜稲妻って名前でな。本人はナイトサンダーと読ませたかったらしいけど、ヨルイナヅマで広まっちゃったんだよなあ?」
「知るかいや! そいつが何やねん!」
「実に面倒なことをしてくれたんだ」
奥歯を噛んだまま言う清ラのくぐもった声に、広石の身体がビクリと怯える反応を見せた。「この男は単身で多黒山に入った挙句、この森で怪物を見たとか言ってあることないことネットに書き連ねたんだ」
ガツ、と清ラが広石の身体を蹴った。ひいい、と広石は四つん這いになって清ラに頭を下げ、それでも側を離れようとはしなかった。小暮家で見たものが余程恐ろしいらしい。
「清ラお前……?」
「もともとここには何もなかったんだよ!」
相当頭に来ているらしく、清ラは俺を窘めたことなど忘れて大声を張りあげた。「この広石が……いや夜稲妻が余計なデマを拡散したせいで、鹿島さんと谷崎さんはこの病院跡地をヒキ伝説の源流だと思い込まされた。そのせいで五年! 五年も無駄な時間を過ごす羽目になった。最初っから呪い塚があのトンネルだと分かっていれば、五年前この村を訪れた段階で辿り着けていたかもしれないのになァ!」
「ま、待て清ラ! 興奮しすぎや、話が見えん! お前、谷崎のことも知ってるんか?」
俺が問うと清ラは背を向け、両手で赤い髪をかきあげて上を向いた。気持ちを落ち着かせようとしているのだろう、奴の両肩が大きく上下するのが分かった。
「ああ、知ってるさ」
「そ」
「会ったことはないけどな」
「な……」
俺が馬鹿なのか、清ラが阿保なのか分からない。一つだけ分かるとしたらそれは、清ラの言葉がひとつも理解出来ないということだけだった。
「噓だったんですか!?」
と、朝火先生が声を上げた。相手は夜稲妻こと広石だ。「あのサイトの、この山の山道や、森や、頂上の写真やなんかも全部噓なんですか。あなたが描いたあの恐ろしい怪物の絵も、全部デマなんですか!?」
「違う!」
広石が四つん這いのまま叫んだ。「俺は見たんだ!この森の中で、スカートを履いた女がひとりで突っ立ってた!声だって聞いた!俺を見つけて追いかけて来たんだぁ!」
「だから……ッ」
再び清ラが広石を蹴る。「お前が見たのはバケモンでもなんでもない!その正体はこの山で首を吊って死んだあの哀れな女の子だよ! 当時まだ十歳やそこらだった子どもを見かけてお前は! それをヒキだと思い込んだ! それだけだ!」
ど ―――
「どうして!」
俺が言うより早く朝火先生が叫んだ。「どうしてあなたにそんなことが分かるの! あの記事がサイトに投稿されたのは七年前のことなのよ!?」
風が吹き、ゆっくりと清ラが振り返った。
「俺もその場にいたんだよ」
「ウソ……」
「七年前だ?」
清ラの乾いたせせら笑いが風に乗る。「七年前が何だよ。俺はなあ、もう二十年以上追い続けて来たんだよ。奴を……」
――― 奴?
「藻波、お前はきっと、俺が伊達や酔狂で霊媒師になったと思ってるんだろうな。お前が占い師なんて流行に乗っかったような仕事に就いた時、俺は思ったよ。何だよ、生まれ変われたじゃん! ってな」
「ずっとお前は何を言うてんねん」
「だけど俺は無理だったよ」
「……」
「最初から最後まで俺はずっと運命から逃げらんなかった」
「何の話や、何や運命て、教えてくれ、お前」
「生まれ変われなかった」
「清ラ」
その時、張りつめた夜気を引き裂くように携帯電話の着信音が鳴った。持ち主は清ラで、奴は俺に微笑みかけたまま自分の携帯電話を耳に当てた。
途端に顔が曇る。
「……そうですか、分かりました。今から向かいます。いえ、近いですから、すぐに」
清ラはそう言うと通話を終え、足元で蹲ったまま震えている広石を見下ろした。
「さあ、まだ終わってないぞ広石くん」
「も、もう無理だ」
四つん這いの広石は頭を振ってそう答えた。「あんなの見ちまったらもう終わりだ、無理だ。俺はどっちみち死ぬ、もう行きたくねえ」
「じゃあどうするんだ。俺は行くぞ、お前ひとりでここで這いつくばって死ぬのを待つのか?」
「……」
広石の答えを待たずに清ラが歩き出した。
俺は奴の前に立ちはだかって、こちらの話が済んでいないと詰め寄った。すると清ラは何を言ってるんだと片頬を上げて笑い、
「お前も来るんだよ藻波」
と俺の肩を掴んだ。
「どこに?」
「……本物の呪い塚にさ」
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