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赤い天使:11
「ここに入るんですか?」
清ラたちの背を追う朝火先生の足が止まる。
先頭を吉備津という名の元看護士が歩き、その隣には場違いな清水が相変わらずいけ好かない顔で立っていた。清ラと広石がその後に続くと、トンネルの入り口に立って頭上を見上げた朝火先生が青白い顔で、
「気持ち悪い」
と言って口を押えた。「ずっと息苦しくて、喉も痛いんです」
不快感を訴える朝火先生に、俺は「無理ないっすよ」という当たり障りのない返答を口にするしか出来なかった。すると清ラが踵を返して戻ってくると、俺とは反対側の朝火先生の隣に立って、
「静かに深く息を吸い込んで」
声をかけながら彼女の背中に手を添えた。
「なんか、臭くて、喉が痛くて、あんまり、息が吸えなくて」
「臭いのは今は我慢してください。とりあえずたくさん息を吸って、その後は俺に任せてください」
言われた通り、小さな子どもように、喘ぐように体を小刻みに揺らしながら朝火先生が息を吸い込んだ。顎の上がった彼女の口を、清ラの右手が塞いだ。
「こっちへ来い」
言いながら清ラが右手を離すと、その手に付き従うように朝火先生の口から黒いモヤが出現した。黒雲のような煙に似たその何かは一メートル近い長さで朝火先生の口から出た後、左手で背中を叩かれ、
「ぶは!」
と強く息を吐き出した彼女の足元に落下し、バシャンと水のように変化した。水はじわりと地面に吸い込まれて消えたが、辺りには数秒間不快な匂いが留まっていた。
「楽になりました……あ、ありがとございます」
「いえ」
頭を下げてお礼を言う朝火先生には目もくれず、清ラそのままトンネルに入って行った。俺は声をかけるタイミングを失い、たった今自分の目で見た現象に理解を得られぬまま、一番最後にトンネルへと足を踏み入れた。
ここです、と言って吉備津さんが案内したのはトンネル内部、入ってすぐ右側の壁だった。スマホのライトでその場所を照らすと、汚れた白い布が見えた。どうやら壁に大きなシーツを張り付けているらしい。目を引いたのは、そのシーツに黒い大きな字で書かれた、
「6号」
という文字だった。
「トンネルは、この先が埋め立てられて向こう側へは出られません」
と吉備津さんは言う。「ですから、山の通り道としてトンネルを利用することは出来ませんので、普段、ここには誰も人は来ません」
「あんたァ……」
俺は思い切って尋ねた。「普段人の来んこないな場所で何をやってるんや。なんで、ここのことを知ってるんや」
すると吉備津さんは伏し目がちの顔をさらに俯かせて、
「近くに、家があります」
と答えた。
「家……て、あ、あんたこの山ん中に住んでるんか!?」
思わず上げた俺の声がトンネル内にこだました。吉備津さんは頭を振りながら、
「生家が近くにあり、今でもよく、寝泊りしています」
と言う。
「な、なんでまた」
すると吉備津さんは顔を上げ、白い布に書かれた「6号」の文字に左手を伸ばした。文字は汚れたシーツの上の方に書かれていて、手を伸ばしても届かない場所にあった。
「会いに」
と、吉備津さんは言った。
「会いに? ……誰に?」
問うと、振り向いた吉備津さんの両目が俺を見た。
……カンムリさんに。
「か」
ビュウ、と風が吹いてシーツがめくれ上がった。
あ、と朝火先生が声を上げる。
シーツの向こう側に空間が見えた。誰かの当てた照明に浮かび上がったその空間はまるで、壁面のコンクリを崩して掘り進んだ穴倉のような場所だった。
「なんや、ここ」
一畳程にしか見えない狭い穴倉の内部で、一瞬だけ白く丸いものが光って見えた。
「供養や」
と言ったのは、清水だった。「緑さんらに、上の病院のことは聞いたやろ。廃院が決まって、入院患者が別の病院へ移送された話も。そん時一人だけ行方が分からんなった人間がおる、そういう話も」
聞いた。
その女性患者が生き延びていて、今も山で人を殺して回っているのじゃないか、と緑さんたちは怯えていたのだ。
「患者が脱走したのはほんまや」
と清水は言う。「けど、遠くまでは逃げられんかった。偶然このトンネルに逃げ込み、この場所を発見したその患者はつかまることを恐れて」
清水がシーツを握って、めくり上げた。
「この場所で自害した」
穴倉の内部に小さな木製の机があった。その机の上では人間の頭蓋骨がこちらを向いており、頭には数本の長い髪と、真新しい花冠が乗せられていた。
「彼女こそが、この村に伝わる引御前の正体や」
何故だ、と俺は思った。
何故今、清水は俺たちにこれを見せるのか。そして何故清水なんだ。あれだけよそ者を嫌い、鹿島先生や谷崎のフィールドワークを妨害していた男が、どうして今になって。
あ、と朝火先生が口を抑えて声を上げる。見やると彼女は震える指先を穴倉へと向けていた。
「……あれは」
朝火先生の指さす先には花冠を被ったしゃれこうべ。だが見るべきはその下、頭蓋骨は黒いノートの上に乗っかっていたのである。「日誌か?」
「さっきここへやって来て見つけたんや」
と清水が言う。「一時はどこへなっと失われてたんやがな……」
「同じもんか?」
俺の視線を受け、清ラが頷いた。小暮家で箒次郎とともに消えた業務日誌が、今何故かこのトンネル内部の穴倉にある。アポーツ、ということか。
「彼女がここで亡くなっているのを発見したのは、病院跡地の再利用計画がなくなった、と聞いた後のことでした」
吉備津さんが語り始めた。
多い時には五十人以上いたという利用者も、昭和五十年代に入って激減したそうだ。経営が立ち行かなくなった頃にはすでに、土地の再利用の話が持ち上がっていたという。当時多黒山病院に勤務していた看護師らは、名前がすげ代わるだけで病院としての機能が保持されるならばよし、全く別の何かに生まれ変わるなら新たな勤務地を探さねばならない、という人生の岐路に立たされていた。だから当然、自治体と国の間で交わされる再利用の懸案には誰もが強い関心を示していた。が、全ての計画は病院の取り壊しを前に白紙となった。
「カンムリさんの失踪が、その理由でした」
もしもその失踪患者の捜索が長引けば、警察や病院関係者の信用に傷がつき、新たな病院の誘致にも相当なマイナス要因となる。その上、仮に宿泊施設などを建設した場合、後になって死体でも発見されようものなら観光業としては致命傷である。まさかそんなことで、と思うかもしれないが、その時点で多黒山は自治体が国から買い上げていた為、判断は当時の村関係者数人の手に委ねられていた。計画は白紙に戻さざるを得なかった、という。
「その、カンムリさんと仰る方は、何故ここで自害されたんですか?」
と朝火先生が聞いた。「つかまりたくないとは言っても、死ぬよりは良かったんじゃ……」
「カンムリというのはひそかに私が呼んでいたあだ名のようなもので、彼女の本名ではありません」
と吉備津さんは言う。「彼女は病院の庭に出て、草花を摘んで冠を作るのを日課にしていました。その様子を見ていた私が、勝手にそう名付けたんです」
「は、はあ」
「カンムリさんは、恐れていました。だから、逃げたのです」
恐れていた ―――?
何をだ。
何から逃げていたんだ。
いや、誰から、か。
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