赤い天使:12

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赤い天使:12

「カンムリさんは、恐れていました。だから、逃げたのです」  恐れていた ―――?  何をだ。  何から逃げていたんだ。  いや、誰から、か。 「クロベエさんです」  どん、と心臓を叩かれるような、怖いくらいはっきりとした嫌な予感に体が震えた。……、と思った。 「カンムリさんはもともと軽度の精神疾患を抱えていましたが、薬の服用さえ正しく行えていれば日常生活に支障をきたすほどではありませんでした。その為、割と院内を自由に動ける患者さんの一人ではあったのですが、ある時を境に、多黒山病院全体がおかしくなっていったんです」  吉備津さんがクロベエと名付けた患者が、その原因だったそうだ。  クロベエは一見して健常者と区別がつかない見目麗しい女性患者で、医師の指示にも素直に従い手間がかからず看護師受けも良かった。だがある時、カンムリさんが吉備津さんにこう告げ口する。 「あの人、他の人を誘って回ってるの」  何に、と問うと、 「あの人、こう言うの」  カンムリさんは答えたそうだ。  、って。  最初の内は、周囲から羨望の眼差しを受けていた美しいクロベエの存在をやっかみ、カンムリさんが噓の報告を入れているのではないか、と吉備津さんも慎重に取り扱ったそうだ。 「クロベエさんが多黒山病院で他の患者さんに直接何かをした、という証拠はありません。しかし彼女と接触した患者さんが相次いで亡くなったのは事実です。私たちも目を光らせるようにはしていたのですが……」  カンムリさんはクロベエの何か異常な力に気が付いていたのかもしれない。一緒に死のうと声を掛けられた患者は皆一様に体調を崩し、その直後に亡くなってしまう。だが死因はまちまちで、自殺もあれば、病死もあったそうだ。病院側としても不審には思ったが、出来ることと言えばなるべくクロベエと他の患者を接触させないことだけだった。 「ですが、ある時クロベエさんとカンムリさんが話をしている場面を見かけてしまったんです」  吉備津さんは慌てて間に入り両者を引き離した。医師の指示を仰いで、必要とあらば投薬も施した。しかしあえなくカンムリさんは体調を崩し、そのまま患者たちが他所の病院へ移送するタイミングが訪れた。カンムリさんが姿を消したのはこの時であるという。 「もしもクロベエさんと同じ病院に移された場合、このまま自分は死んでしまう、そう思い込んでのことやと思います」  吉備津さんは白いシーツに書かれた「6号」という数字を見上げ、 「これはカンムリさんの部屋の番号です」  と言った。「カンムリさんはきっと本当は、どこにも行きたくなどなかったんやと思います。それなのに、たった一人で、こんな場所で」 「じゃあ、この数字を書いたんも?」  俺が問うと、吉備津さんは頷いて、カンムリさんですと答えた。 「その、クロベエ、という人が書いたという可能性はないんですか。カンムリさんは自殺ではなく、クロベエさんに見つかってしまったんじゃ?」  という朝火先生の質問には、 「ありません」  と吉備津さんは答えた。「クロベエさんも、カンムリさんと時期を同じくして亡くなりました。移送先の病院で」 「し、死因は?」  続けて問うに朝火先生に、警察の人? と吉備津さんは揶揄うように嗤った。「クロベエさんの死因は……」  焼死、だったそうだ。 「何者だったんでしょう、そのクロベエという人」  溜息と共に朝火先生が呟いた。  多黒山病院に入っていた人間は皆心に問題を抱えていた。そのクロベエという人物も例外ではないはずだが、どこか他の人間とは違った禍々しさがあるように感じられた。人目を引く美貌、弱者を惑わす魔性、炎に身を投じた最期など、まるで中世ヨーロッパの魔女を彷彿とさせる危うい存在である。本当に死んだのか、と思わず聞いてしまいそうになる。 「どう思う」  俺の心を見透かすように清ラが聞いた。 「何がや」 「今の吉備津さんの話を聞いて疑問に感じることはないか」 「……どういう意味や」 「この山を発祥とする引御前の噂」 「……」 「この場合、カンムリさんかクロベエさんか、どっちがヒキなんだと思う?」 「それは」  一緒に死のうと人々に声をかけて回る辺り、いかにもクロベエがヒキだと感じる。実際彼女の周囲で人が死んだというのだから可能性は濃厚である。だがあの世から舞い戻って来る幽霊ってのは普通、この世に未練を残し怨念を抱えた魂なのだと相場が決まっている。となると、であるカンムリさんが化けて出て、この山に現れる生者を引っ張っているという可能性も捨てがたい。 「分からん」  素直にそう答えると、意外にも清ラは頷いて、 「吉備津さん」  と彼女を振り返った。「あなたはどうして、村の人間に自分の存在を隠してまでこの場所に通っているんですか?」 「だから供養やと言うてるやろ!」  清水が、清ラの視線から守るように吉備津さんの前に立ちはだかった。 「供養……な」  と意味深な声色で清ラが繰り返す。「本当にそうでしょうか」 「何やと!」  食って掛かる清水から距離を置き、後退しながら清ラは懐中電灯をトンネルの奥へと向けた。そこに見えたのは壁だった。だがその壁はコンクリではなく、砂や石を混ぜて固めたような土壁である。仕上がりも決して綺麗ではなく、緑さんが言ったように、土砂をそのままこのトンネルへ運び入れた結果だというのが見てすぐに分かった。 「よく見てみろ」  と清ラが言った。  俺と朝日先生は手持ちの懐中電灯とスマホのライトでその壁を照らし、目を凝らした。先に異変に気付いたのは朝火先生だった。 「あれ、あそこ」 「どれ?」 「あそこ! ……ビデオテープ!」  朝火先生が照らし出したのは土壁の天井付近、半分ほど突き出た形で壁に埋まっているVHSテープだった。 「なんであんなとこに。あれがまさか、谷崎の職場から消えたいうビデオテープなんか!?」  偶然だと思いたい。しかし偶然だとしても、この時代に裸のVHSテープが山奥で見つかる可能性に思いを馳せただけで眩暈がする。 「あれだけじゃない」  と清ラは言う。 「どういう意味や」  問うと、清ラはトンネルの奥を見ようともせずに、 「傘もあるぞ」  と答えた。  杖もある。ロープに、リュックに、帽子も。……Tシャツ、眼鏡、手袋、マグカップ、ジャンパー、ハンカチ、スカート、下着、マフラー、靴、靴下、本、手紙 ――― 「一体何だと思う?」  突如問われ、俺も朝火先生も答えられずに生唾を呑み込んだ。 「全部この山で拾って、吉備津さんがこのトンネルに埋めたんだそうだ。例のビデオテープも、山で見つけたものは全部外へ持ち出すことなくこの場所に埋めた……たったひとりで、村の人間には黙ったまま」 「く、供養や」  すがるような口調で清水がそう言った。だが清水の顔には、まるでそう言わねばならないような、強く自分に言い聞かせているかのような情念が浮かんでいた。
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