赤い天使:17

1/1
前へ
/66ページ
次へ

赤い天使:17

「清……ッ!」  走り出した瞬間、朝火先生の身体に蹴躓いた。俺の足元で、朝火先生は尻もちを着いたまま後退し続けていた。俺のせいで1ミリも下がれていないことに気付かぬまま。 「ああッ!」  その朝火先生が悲鳴のような声を上げる。  驚いて顔を上げると、吉備津さんの姿が消えていた。 「どこ行った!?」 「と、トンネルへ」 「入ったんか!?」  ――― この一瞬でか? 「藻波、逃げろ」  そう言って、清ラが両膝を着いた。左手で傷口を抑えているものの、噴き出した血が右半身を染めている。俺は慌てて駆け寄り、清ラの身体が倒れ込まないように支えた。 「何があった!」 「……」 「し、清水さんが、吉備津さんに……」  奥歯をカタカタ鳴らしながら、朝火先生が見たままを教えてくれた。 『吉備っさんなんでまだこんな所におるんや、とっとと山を降りよう!』  清水がそう声をかけたそうだ。しかし振り返った吉備津さんの顔は、木彫り能面のように固まった表情でどこを見ているのか分からなかった。異様さに思わず息を呑む清水さんの前に、突如として箒次郎が現れたという。 「清水さんはこのトンネルで日誌を見つけたと言うてた。そん時中の写真に触れたんかもしれん。呪いを受けたんや……!」  俺は初めてこの村を訪れた時、安宿のフロントで強引に清水の未来を視た。古いノート、ビデオテープ、大きな森、風になびく花柄のカーテン、それに……ぐにゃりと曲がった三日月みたいな目。俺があの時見た花柄のカーテンは、カーテンではなく藤堂光江が着ていたワンピースだったのだ。 『こ、こいつは一体何や……』  だが清水は気丈にも逃げなかったそうだ。偶然かもしれない。清水は箒次郎の名前を知らず、(恐怖に足がすくんだせいかもしれないが)背を向けて逃げ出すことをしなかった。 「それやのになんで」  呟く俺に、朝火先生が右手の指先でトンネルを指さした。 「トンネル……?」 「違う……吉備津さんがもの凄いスピードで……し」    ――― 清水さんの背中を包丁で刺しました何度も。  鮮血の飛び散る光景を間近で目撃した姫倉が失神して倒れ、広石は気がふれたようになった。何かに気が付いた様子の清ラが踵を返してトンネルへと走り出したその瞬間、穴倉を覆っていた白いシーツが天井付近までめくれ上がり、花柄のワンピースが見えたそうだ。そして清ラは一歩を踏み出した所で、追い付いて来た吉備津さんに包丁で右肩を刺された。 「き、吉備津さん何でや! 何であんたがこんなことせないかんのや!」  俺はトンネルに向かって叫んだ。しかし返事はなく、倒れる清水の側で、箒次郎が左右に振る箒の音だけが聞こえていた。 「しくじったー」  清ラが自嘲気味に言う。 「清ラ喋んな! もうすぐ鹿島先生が来る、そしたら一緒に山降りよう! 大丈夫や刺されたくらい、大阪では日常茶飯事や!」 「……本当かよ」    カリカリカリカリ……キーーー……  トンネル内部から甲高く不快な音が聞こえる。  ううう、と朝火先生が怯えて下がる。  吉備津さんは包丁を持ったままトンネルの中から俺たちを監視しているのだ。朝火先生が見たという生気のない顔で。剥ぎ取った死人の皮膚を被ったような、違和感だらけの顔で。 「ひろい……ッ!」  逃げろ、と広石に忠告する暇さえなかった。 「あの子には私が分からないのよ? 私はずっとこの山にいるのに」  声とともに暗闇から伸びて来た赤黒い刃が、震えて動けない広石の首を背後から切り裂いた。 「き……!」  ドサリと広石の身体が倒れた。暗がりの中に身を寄せたまま、吉備津さんの声だけが夜の闇を漂って来る。 「身を粉にして働いて来たわ。頭の狂った人たちも、心の壊れた人たちも、皆私と同じ人間やもの、愛情を持って接して来たわ。せやけど因果なもので、人手不足と家が近いことを理由に私は狂人たちの館に長い間縛り付けられた。何日も帰れないままカンムリさんやクロベエさんのお世話をした。家ではあの子が私の帰りをずっと待ってたのに。お腹を空かせて、それでも優しいあの子は不平不満を言わずにニコニコと笑顔で私を待ってた筈やのに」  俺のすぐ側で、地面を往復する箒の音が聞こえる。 「警察に呼ばれて走って帰るとあの子は変り果てた姿で冷たくなってた。一体どれだけ殴られたのか顔が倍以上も腫れ上ってた。口の中には道端に生えてるような雑草がぎゅうぎゅうに詰め込まれてた。殺された、次郎が殺された」  一定のリズムを刻む箒掛けの音が耳の奥まで入り込んで来る。 「……何で? 何で? 何であの子がそんな目に合うん? 身を粉にして働いた私が悪いんけ? 寂し思いをさした私が悪いんけ? 老いた母親と幼い弟を食わす為に必死に働いた私が悪いんけえッ!?」  先程よりも激しく刃物の切っ先がトンネルの壁を抉る。 「あの子は帰って来た。悲しい姿で戻って来た。せやけど……あの子には私が分からんのや。どれだけ名前を呼んでもあの子は私を見やん。そんなある時……おかしな男と女が現れて、どうやったか知らんがこの山から私の持ち物を盗みよった」  ――― 分かるか。  と清ラが小声で呟いた。  俺は黙ったまま頷いた。  俺の、両親のことだ。 「するとな、なんと、盗まれた日誌を追いかけてあの子が山を抜け出したんや。私は慌てた。あの子が消えてしまったと泣きくれた。でも、すぐにあの子は戻って来た。盗まれた日誌と一緒に」 「弟さんのことはよく分かった!」  聞いていられなくなって俺は叫んだ。「辛かったと思う! 悲しかったと思う! せやけど吉備津さんあんたがなんでんや! 清水さんや清ラを傷つける理由は何や! そんな必要がどこにある!」 「……何を言うん?」  吉備津さんの声に変化が起きた。忌わしくも遠い過去に思いを馳せる薄幸の淑女のそれが、怒気を孕んだ生々しい感情的な力を漲らせていく。 「裏切られ続けたのはこの私よ。私を案じて側で見守る振りをしながら清水はそこの赤髪と通じとった。日誌を渡そうとしてみたり、ビデオテープをくれてやったり。やたら感の鋭い女にへえこらしとったんもそや。ヤクザモンの娘かなんか知らんがコソコソと嗅ぎ回りよってに。そんなに私らをこの山から追い出したいんけ? もうここ以外行く場所がないのに? 私はあの子とずっと一緒におるのや。下らんオカルト話に踊らされてやってくる阿呆ども、ささいなことで生きることに疲れてのこのこ死にに来る連中も、私がぜーんぶ引導渡したったのよぅ」  クソが、と清ラが奥歯を噛んだ。その瞬間運悪く、ザザ、と地面を蹴るように体を痙攣させて姫倉が意識を取り戻した。ここでこのまま、壊れた女の話に耳を傾けているわけにはいかなった。しかし、 「藻波」 「おう」 「吉備津さんのことは許してやってくれ」  と、清ラはそう言ったのだ。 「……え?」 「あの人はもうどうにもなんねえ。もう何一つ取り返せない所まで追い込まれた人生だったんだ」 「せやかてお前」 「法を犯したことを許せと言ってるんじゃない。けど、恨むな」 「……無理やろォ」 「その代わり」 「……」 「俺が全部終わりにしてやる」 「……」 「俺がお前を」  ブヅ ―――  包丁が、人の首の根本に突き刺さる音とその挿入の瞬間を、俺は僅か15センチの至近距離で聞いた、そして、見た。  
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

457人が本棚に入れています
本棚に追加