457人が本棚に入れています
本棚に追加
赤い天使:18
「うわぁぁッ!」
めちゃくちゃに叫んで吉備津を突き飛ばした筈だった。しかし俺は吉備津の身体に触れることさえ出来ずに、素早しっこく逃げる奴を見失って前のめりに倒れ込んだ。俺の横ではドサリと音を立てて清ラが草むらに横倒しになり、その光景を見た姫倉が混乱と恐怖に絶叫を響き渡らせた。
「藻波くん!」
鹿島先生が追い付いて来た。
「せんせ警察を! 救急車を!」
「もう手配済みだ、須賀巡査に今から来るようにと……!」
駆け付けた先生は俺の側まで来ると、首元を深く傷つけられた清ラの姿に声を失った。
「も……」
その、清ラが俺の足を掴んだ。「お、親父はお袋にこう言い残して死んだそうだ。逃げちゃいけない。その名前を呼んじゃいけない。俺にはこれしか手掛かりがなかった」
「もう喋んなてお前は!」
鹿島先生が鞄から手ぬぐいを出して清ラの傷口を押えた。姫倉と朝火先生は四つん這いのまま俺たちの側まで来ると、驚いた様子でそこでまた尻もちを着いた。箒次郎が俺の後ろに立って清ラをじっと見下ろしていた。地面を掃く箒の音が、止んでいたそうだ。
「俺は」
清ラが喉を震わせて言う。「自分の親が死んだ原因を作った奴らが許せなくて、そいつらのガキをどうしてもぶん殴ってやりたい気持ちで大阪の施設に乗り込んだ。けど、そこで見たお前は……あまりにも酷かった」
俺は、その時の俺自身のことを覚えていない。
しかし清ラから見た当時の俺は、ガリガリに痩せて、目だけがらんらんと輝き、道端で毟り取った雑草を噛みながら涎を垂らしていたそうだ。
「お前の後ろにずっと奴は立ってた。俺の親父とお前の両親を自殺に追い込んだのはこいつだ。俺はそうはっきりと確信した。俺はお前を許した、いや、お前は何も許されなくちゃならないようなことはしてない。お前も被害者だ。その日からずっと俺は親父の意志を継いで、今日まで、奴を追い続けて来たんだ」
「そ、その日からてお前、ずっと俺と一緒に施設に入ってたやないか!」
「は」
清ラは笑った。「入ってねーよ。ただ、三日と開けずにお前の様子を見に通っただけさ」
「お……お前」
「藻波全然昔のこと思い出さねえもんなあ」
「せ、せやかてお前」
「ずっと噓ついててごめんな藻波」
「お前」
「俺お前と同い年じゃねえんだ。俺が二個上」
「たった二個しか違わんやんけ!」
あの時俺は七歳で、その時清ラは九歳だったのだ。清ラは俺の前で涙を流し、こう言ってくれた。
――― 生まれ変わろうぜ、俺たち。
「死ぬな清ラ! 死ぬな! 死ぬなおいアホかお前死ぬなッ!」
「おいおいおいー、死神が俺を覗いてるなぁー?」
「どけえッ!」
俺は腕を振り回して箒次郎をぶん殴った。しかし俺の腕は空を切り、奴は俺の背後から清ラの真横に移動しただけだった。
「清ラくん、僕は君になんてことを」
鹿島先生が涙ながらに詫びた。清ラの生い立ちを知る先生は、一時は日誌から遠ざけるべきだと考えていた。だが谷崎の死を受け清ラの霊媒師としての力に縋ってしまった、そのことを後悔しているのだ。
「俺が望んで始めたことですから。……そこに、藤堂さんの友だちはいますか?」
います、と姫倉バーネットが声を上げる。
「藤堂さんの件は申し訳ない。こんなことになると予想出来なかった、俺の力不足でしかない。けど、君の友だちがこうして、鹿島さんや、藻波や、朝火先生を呼び寄せたことは間違いないんだ。藤堂さんは自殺じゃなかった。彼女の仇は、絶対に俺がとってみせるか」
ヒューーーと喉が鳴る音がして、清ラが大量に血を吐いた。
「いかんこのままでが血が流れ過ぎる」
鹿島先生が清ラの身体の下に腕を差し入れて起こした。「ここで救急車を待つのでは遅すぎる、皆で彼を麓に降ろそう!」
「い、いやでも」
根元とは言え首をあれだけの勢いで刺されたのだ。だが清ラが刺された瞬間を見ていない先生は、
「早く! 皆どうした!」
まだ何とかなると信じて疑わなかった。ガクガクと痙攣する清ラの手が俺の腕を掴んだ。
「もな、も、もな、み!」
「清ラ! 清ラ俺や! ここにおる!」
「お、俺、昔の俺と、ちょっとは変わっただろ?」
「おお。清ラ、自分なんで髪の毛赤いんや?」
「ふはは」
「阿保が」
「なー。俺らの未来は明るいか?」
「おお、明るいなぁ。眩しすぎて何も見えんで」
「……ヘッポコ占い師」
清ラの頭が重そうに後ろへと垂れた。
その真上から、覗き込むように箒次郎が覆いかぶさって来た。
俺は叫んだ。
絶対に口にするなと言われたその名を、味わったことのない感情とも共に吐き出した。
「次郎ォーーーーーッ!」
腫れあがった奴の目蓋がカッと見開き俺を睨んだ。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!
「だから呼ぶなと言っただろ」
俺には確かに聞こえた。動かなくなった清ラがそう突っ込んだ声を、確かに俺は聞いたんだ。
ボ、と清ラの赤い髪が突如燃え上がった。
俺たちは慌てて飛び退る。
火はまるでそれ自身が意志を持っているかのように、清ラの頭からメラメラと燃え移って箒次郎を焼いた。饐えたような草の根の匂いも、奴が持っていた箒もまとめて炎に包まれていく。
ぎゃあああああ ―――
怪鳥の如き雄叫びを上げてトンネルから吉備津が飛び出して来た。
手には清ラを刺した包丁を握っている。
逃げなくちゃ行けないと分かっていながら、動けなかった。
明日に向かって生きる為のエネルギーがどこからも沸いてこなかった。
これも引御前の呪いか……そう思った。
「伏せろ!」
どこからともなく声が聞こえたその刹那、俺の右側から襲い掛かって来た吉備津の身体が弾丸を喰らったような勢いでふっ飛んだ。
振り返ると、小暮緑さんが何かを投げ終えた姿勢で立っていた。そしてその横には法子さんがいて、緑さんに次弾を手渡そうと身構えていた。法子さんの手には、手斧よりもデカい風呂焚き用の薪が握られていた。
ぎいいぃぃ、と顔面を抑えてじたばたともがく吉備津の足に、走り込んで来た須賀巡査の手錠がガチャリと嵌ったのが見えた。そして、あわや須賀巡査の手首を吉備津の握った包丁が切り落とす寸前、朝火先生と姫倉が同時に須賀巡査を後ろへ引っ張って事なきを得た。
ゴウ、と火の手が勢いを強めた。
「ああ」
という朝火先生の声に顔を上げると、いつの間にかトンネル内部の穴倉からも火の手が上がっていた。
――― 日誌や。
俺は思った。箒次郎の身体に火が付いたことで、奴の憑りついていた日誌の中の写真にも飛び火したのだ。6号、と大きく書かれたシーツが夜空に舞い上がるのが見えた。目をやると、清ラの髪は俺の知っている元の黒色に戻っていた。
「へっぽこ占い師……」
清ラの言う通りだと思う。
幼馴染さえ救えなかった俺にはもう、人の未来を覗き見る勇気など残っていなかった。
最初のコメントを投稿しよう!