終章:2

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終章:2

 幼い頃に清ラさんが紛失させてしまった黒いノートの行方に関しては、私にも思う所がある。吉備津さんが書き記したこの業務日誌は、多黒山の廃トンネル内部に掘られた穴倉がその正式な所在であったと結論づけられた。だが事の起こりとして、日誌がひとりでに鹿島先生のショルダーバッグに移動して来た、という経緯を忘れてはならないと思うのだ。そして小暮家にて我々が顔を揃えた際も、『箒次郎』が取り戻しに現れた後、日誌はまた穴倉へと移動している。これらのことから考えられるのは、日誌はこれまでも『箒次郎』の意志あるいは残留思念によって、に応じた移動を繰り返していたのではないかということだ。  私はこのを、『箒次郎』が望んだ自身の「成仏」なのではないかと考えている。霊体としての意志ではなく、人間だった頃に抱いていた安らぎへの憧憬が強い思念として残っているのではないか、と。  木村さんの御両親の前に現れたのも、時を経て再び鹿島先生と木村さんの前に出現したことも、さらにはトンネル内へ我々を導いたのも、自分を成仏させてくれる人間を探して彷徨い続けた結果なのではないか、と思うのだ。それは生者を自死へ引き込む負の連鎖、呪縛からの解放とも言える。 「名前を呼んではいけない」 「奴から逃げてはいけない」  その二つの禁を、谷崎さんは自ら破ったのだと鹿島先生は仰っていた。結果論と言われればそれまでだが、実際に日誌を手にした鹿島先生、木村さん、そして私、この三人はルールを守ったおかげで『箒次郎』の霊障を受けず済んだ。出会ったものを例外なく死に至らしめる悪霊なら、犠牲者はさらに増えていたことだろう。  弔い合戦、と言う言葉を鹿島先生は使われた。それは何も谷崎さんだけでなく、木村さんのご両親や清ラさんのお父様のことも含めて、先生はずっと胸に秘めて生きてこられたのだと思う。だからもちろん、『箒次郎』によって不条理な死を迎えた多くの人たちを前に、こんな不謹慎とも言える推測を口にすることなど出来るはずもない。だが可能性のひとつとして、未熟な物書きの脳裏に過ぎった仮説を、この場限りの戯言として記しておきたかったのだ。  もうひとつ分かったことがある。それは、藤堂光江さんのことだ。藤堂さんは、鹿島先生や清ラさんよりも早くから多黒村に出入りしていたことで、廃トンネルの実態や吉備津という女性の正体に薄々気が付いていたと思われる。 「多黒は危険だ」  しかしその事実を前にして、藤堂さんはまだ十八歳だった。あの山で、血生臭い連続殺人の気配に気が付いていたとしても、危険をおかしてまで彼女一人に出来ることなどあるわけがなかった。そして、同い年の友人が『引御前』に興味を示したことで焦りを募らせた藤堂さんは、単身山へと乗り込み帰らぬ存在となってしまった。あの山で最後に彼女の魂を見た時、藤堂さんは悲しい顔で首を横に振っていた。 「誰か」 「誰か気づいて!」 「あの山は危険なの!」 「あの山には……!」  その思いが、小説投稿サイトへ三百七十件を超えるコメントを書き込む行為に繋がったのだとしたら、私にはそれが藤堂さんの祈りであったように思えてならない。直接誰かに相談することは出来なかった、しかし本当は、鹿島先生や谷崎さんに気付いて欲しかったのかもしれない。そんな藤堂さんの祈りを、この私が受け取っていたのだ。    『引御前』とは何だったのか。  多黒山に出没するという、触れてはいけない存在。生者をあの世へ引っ張る女幽霊とは一体何だったのか。あるいは指摘されていた通り、人工的な呪い塚と化した多黒山が多くの命を飲み込んでいた、その現象を引き起こした者を引御前と呼ぶならば答えは出ている。ただし、そんな単純な話で終わる筈がないのだ。  逮捕された元看護士・吉備津サキは、最愛の弟を二度失った絶望感から罪を認めて洗いざらい白状したそうだ。吉備津はこれまで、多黒山に足を踏み入れた登山客や余所者を数多くその手で殺めていたという。後に須賀巡査から聞いた情報によれば、トンネルを塞いでいる土砂内部から発見された夥しい数の遺留品や人骨から見て、死者の数は三十人に迫るという話だった。連続自殺騒動として世間を賑わせた一連の事件は、、と吉備津は供述している。逆に言えば、その演出の為にわざと首を吊られた被害者たち以外は、相手が観光客だろうと自殺志願者だろうとお構いなしに殺して埋めたというのだから理解に苦しむ。そもそも初めから被害者たちに接点などなかったのだ。女性ばかりを首吊り自殺に見せかけた理由については、単純に男よりも体重が軽いから、と答えたそうである。  これまで一度も発見されていなかった自殺者の遺書がトンネル内部の土砂から見つかったことを踏まえ、自殺と他殺の判断を慎重に行うとしながらも、警察は吉備津の自白を元に検察へと送致し、早々に起訴されることが確定した。法改正後、殺人に対する法定刑の上限が死刑に該当する罪については公訴時効が廃止された。吉備津は今後、過去四十年の間に起こした殺人容疑を背負い、破滅への道を転がり落ちていくしかない。  ただ、同情の余地が全くないかと言えば、私個人に限ってはそうでもない。当たり前の話だが、何の罪もない人々を闇に葬り続けた鬼畜の所業についてその是非を問う気は微塵にもない。私が関わった此度の事件だけでも、藤堂光江さん、清水さん、広石さん、阿含清ラさんの四人が吉備津の手によって殺害されており、現場から押収された広石さん所有のビデオカメラには目を覆いたくなるような凶行がはっきりと記録されていた。そしてトンネル内の穴倉には、藤堂さんが着用していたと思われるワンピースの一部が切り取られ、壁に貼り付けにされていた。情状酌量の余地などどこにもあろうはずがない。だが吉備津は警察や検察が執り行った尋問の中で、弟・吉備津次郎の死についてこんな供述を残している。 「……殺された弟は私たちの家ではなくトンネルの中で発見されました。あの部屋(トンネル内部の穴倉だと思われる)にある頭蓋骨は次郎のものです。犯人は捕まっていませんが、私はの笑顔と私を見る目つき、そして実行を仄めかす言動に触れて確信したのです。私の弟を殺したのはカンムリさんとクロベエさんです。私が心血を注いでお勤めしていたあの病院の狂人どもが、散歩の時間を利用して私の弟を殺した。だから私は、この手で弟の仇を取ったのです。カンムリさんは病院の外へ誘い出してトンネルで殺しました。クロベエさんには逃げられましたが、大事な引継ぎ事項があると言ってなんとか移送先の病院を突き止め、灯油をかけて焼き殺しました。……その他の人たちを何故殺したか、ですか? 看護師として働いていた私のような人間が、何故他人の命を踏みにじれるのか、そう仰りたいのですね。さあ、今となってはよく分かりません。弟を殺された日から、他人の命にまるで興味を失ったものですから。今でも別に、大それた罪を犯したとは思ってません。分別も、怒りも、愛情も、全部次郎と一緒に殺されたのかもしれませんね」  カンムリさんとクロベエさんが本当に吉備津次郎を殺したのか、その場合動機が何なのかという点については、現段階では吉備津サキの供述を参考にする他なく、今後それらが明らかになることはないのだろう。しかし、たった一つだけ確信を持って言えることがある。それは業務日誌の最終ページに記された一文だ。 『〇月△日、雨、友引。今はもう、ただただ、悲しい』  この日、多黒山の引御前が誕生したのである。              『卑忌』、了。
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