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「……私と入れ違いで留学される生徒さんは、確か三年の方でしたでしょうか?」
それとなく情報を得ようとした私に、久我先生は躊躇いなく頷いた。
「ええ。なかなか優秀な生徒でし……おっと」
久我先生はステアリングを握る手の位置を変えながら話していたのだが、ある個所に触れたところで、わずかに慌てた声をあげた。
「どうかされましたか?」
運転席では、久我先生が運転しつつも指先を擦り合わせていた。
「さっきコーヒーをこぼしてしまったんですが、それがまだ残っていたようです」
「それは大変ですね。もしよろしければ、こちらをお使いください」
私はハンドバッグの内ポケットからお手拭きを取り出し、袋を開けた。
「これは…?」
「こちらに来る途中にいただいたお手拭きです」
「いや、それは分かりますが……」
「何か?」
「ああ、いえ、館林のお嬢様でもそういったものを持ち帰られるのかと、少々驚いたもので……」
久我先生は戸惑いながら私からお手拭きを受け取り、片手で器用にステアリングを撫でていった。
私はこういった反応にはもう慣れているので、
「ですが捨ててしまうのは勿体ないですから」
と、特に意に介さない温度で返した。
私の実家、館林家はそれなりの家柄だ。
その館林家の一人娘である私が、無料で配布されたであろう使い捨て手拭きをわざわざ持ち帰り、こうしてバッグに忍ばせるなど、普段名家の子息ばかりと接している久我先生にはよほど意外だったのだろうから。
そしてそれは、私の家を知る人物ならばほとんどが同じ反応だったのだ。
そのうちの一人が、実家の庭師である。
声高に“みっともない”と揶揄する人間はいなかったが、彼らは揃って珍しいものを見るような目をしていた。
確かに私の両親は裕福ではあるが、それは私が成したものではない。
ただ館林家の娘であるというだけで経済的にも物質的にも困窮したことがないというのは、私が幸運だったに過ぎないのだ。
ゆえに、日常において、必要以上の贅沢は控えるよう心がけているし、ほんのささやかなことでも、無駄を省けるものは積極的に取り入れた。
勿体ないからだ。
だが、庭師の発言にもあったように、それを他人が見たときに館林の名にそぐわないように感じられてしまうのは、大いにあり得ることで。
それはある意味正しい。けれど別の意味では、受け取り方の問題だろう。
少なくとも私はそう考えていた。
だから、今の久我先生の戸惑いも理解はするが、いちいち過剰反応はしない。
私は私、なのだから。
「うちの学院の生徒にもまったくいないわけではないのですが、彼らはみな堅実でしっかりしてますよ。ですからきっと、舞依さんもそうなんでしょうね」
館林家のお嬢様には似合わない、と言われることはあっても、しっかりしていると評される機会は少なかった。
どうやらこの久我先生は、自分と価値観が違う相手でも、否定よりは肯定から入ってくれる人のようだ。
もちろん、立場上、そう言わざるをえないのかもしれないが。
それでも、私が短い時間で好印象を抱くにはじゅうぶんだった。
「そう言っていただいて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
素直に礼を伝えると、久我先生はふわりと微笑んだのだった。
もうしばらくして、車窓は、にわかに風景を変えた。
山や森といった緑の景色が、一気に開けたのである。
そしてそこに現れたのは、巨大な風力発電用の風車だった。
夏の青い空にまっすぐにそびえる、真っ白くて高い高いタワーの先には三枚羽のプロペラ。
これまでに風力発電機を目にしたことは何度もあったけれど、ここまで風景として美しいと感じたのははじめただった。
山と風車と青空のコントラストが見事にマッチしていて、目に眩しいという表現がまさにぴったりだったのだから。
風車はちょっとした公園の中に組み込まれていて、窓を閉めていてもブォン、ブォン、と独特の音が聞こえてくる。
さすがに久我先生には見慣れた景色なのだろうが、わたしの「大きいのですね」の呟きには同意を返してくれた。
「未だに何度見ても一瞬はビクッとしてしまいますよ」
「ここは公園になっているのですか?」
「ええ。地元や別荘にお住まいの方の散歩コースになってるようですよ。風車から右に折れてあの道を進んでいくと、突き当りにうちの中等部と寮があります。この公園は高等部からは少し離れているのであまり利用する生徒はいませんが、ときどき寮の自転車でサイクリングがてら訪れる生徒はいるようです」
「そうなのですか。これだけ緑に囲まれているとサイクリングも気持ちよさそうですね」
「気温がもう少し下がってきたら最高ですね。ですが、ご希望でしたら寮長にでも案内させますので、決してお一人では出かけないでくださいね。特に暗くなってからはこの辺りには人気がなくなりますから、絶対にだめですよ」
教師らしい注意には「わかりました」と答えながらも、わたしは、後方に去っていく風車を見送っていたのだった。
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