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久我先生がまず案内してくださったのは、食堂棟だった。
いくら山の中で都会より涼しいとはいえ、8月の暑さはまだまだ盛りで、長旅を終えたばかりの私の体調を気遣ってくださった久我先生が、まず喉を潤すことを勧めてくださったのだ。
荷物は車に乗せたまま、私は貴重品が入った小振りのバッグだけを持って久我先生の案内に従った。
食堂棟は各寮とは別に建っていて、小径あるいは遊歩道と呼ばれるような通路でそれぞれが結ばれていた。
正門や寮棟と同じく煉瓦造りだがそれよりもかなり大きな建物で、一見すると、洒落たコンサートホールのようにも見える。
ただ、さっき通り過ぎた寮棟に比べると、比較的新しそうにも見受けられた。
そんなことを考えていると、久我先生からはタイミングよく説明が入ったのだった。
「この食堂棟は12年前に改築されたんです。当時私はまだ吹月の中等部に入学する前でしたから詳細は聞いてませんが」
「では、久我先生も吹月のご出身なのですね」
「ええ、そうなんです。以前の食堂棟はもう少し小さかったので全校生徒が一堂に食事することが難しかったそうです。でもやはり全員で一緒に食べられた方がいいということになりまして」
「そうですね。私もそう思います」
私の相槌ににっこり微笑んだ久我先生は、食堂棟の大きな窓の前を通り過ぎて行く。
当然私も先生のあとをついて行くのだが、窓の内側からはたくさんの視線が私こちらに向かっていた。
わかりきってはいたことだ。彼らの興味や好奇心、驚きの眼差しから逃れる手立てなどあるはずはないのだから。
まだ夏休み中なので在籍生徒全員が揃ってるわけではないにしても、私が吹月学院高等部に足を踏み入れた瞬間から、そこにいるすべての人間が一斉に、逐一、私の一挙手一投足を見逃すまいと見てくるだろうとは想像できた。そしてそれに対する心の準備も。
彼らの反応も無理はない。
夏休みをのんびりといつものように過ごしていた最中、いきなり構内に女子生徒が入り込んできたのだから。
この吹月学院は学祭などでも一般公開はないと聞いたから、これまでにここを訪れた女子生徒はごくわずかだったに違いない。
それに夏期休暇中ということもあり、急遽決まった私の交換留学を、どれだけの生徒が把握しているのかもわからない。
もちろん、久我先生に案内されているので、私が不審者等でないことは彼らも承知しているだろう。
もっとも、こんなに堂々とした不審者など有り得ないだろうけれど。
刻々と集まってきた視線はそのうちざわめきになって、波紋のように、花火のように、やがて爆発的に広がっていった。
「まったく。そんな不躾に人をじろじろ見るものじゃないぞ。……ま、気持ちもわからなくもないが」
両開きになってる食堂棟のガラス扉の前で久我先生は呆れ口調で呟いた。
そして扉をくぐると、エントランスで立ち止まり、野次馬のごとく集まってくる生徒達をぐるっと見まわしてから
「申し訳ないです。彼らも動揺してるみたいで」
後ろに控える私に済まなさそうに告げた。
「いえ、仕方ありませんよ。急でしたし、ひょっとしたらまだ事情をご存じない方もいらっしゃるのでは?」
「そのようですね」
久我先生は短く答えるや否や、「はい、注目しろー」と大声を張り上げた。
その場にいた生徒達の視線はすでに私達に集まっている。
「みんなも興味津々だと思うが、紹介する。こちらの方は館林 舞依さん。もちろん見ての通り女性だが、交換留学生として特別に9月から我が吹月学院に編入されることになった。ご出身は日本だが現在のお住まいはイギリスのロンドンだ。クラスは1-1、寮はフラットAに入ってもらうので、同じ寮の者も違う寮の者も何かあったらサポートして差し上げるように。以上!」
久我先生がそう言うや否や、大きなどよめきと歓声がエントランスじゅうに響き渡った。
それまで黙って様子をうかがっていた生徒達が、口々に声をあげたのだ。
「先生!そんなの今はじめて聞きましたけど!」
「いや、先週辺りから噂はあったよな」
「じゃあうちも共学になるってことですか?!」
「いつ決まったんですか?」
「でも帰省した時親は何も言ってなかったけどな……」
「交換留学って、短期ですか?」
「男子寮に女子が入っても大丈夫なのかよ」
「久我先生が案内してるってことは、学院長直々の推薦ってことだろ?」
「本気かよ、ここは男子校だったんじゃねえのかよ」
「いいんじゃないの?女の子が入ったって」
「先生ー!どうして僕達には内緒にしてたんですか?」
「俺実家に電話してこよう」
収拾がつかないほど騒がしくなった生徒達に、久我先生が両手で宥めるようなジェスチャーをしたものの、その効果はまったくない。
「お前達が訊きたいことも山ほどあると思うが、それは今後改めて説明の機会を設けるから、今のところはひとまず落ち着いてくれ。それから、フラットAの――」
久我先生が周囲を見まわして誰かを探すような素振りをしたとき、
「なあ、館林って、もしかしてあの館林か……?」
ざわめきの隙間をすり抜けて耳に届いたセリフがあったのだ。
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