約束したこと

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   道子はランドセルを背中にずり上げながら、秋も深まった通学路を歩いていた。札幌の秋の夕暮れは少しひやっとする。家に着くと、今日も牛乳箱の中から鍵を取り出して玄関のドアを開けた。ただいまと言っても誰も応えてくれない。  道子は、時計を見た。16時だった。ダイニングテーブルの上には、母が用意していったおやつがぽつんと置いてある。道子の好きなサッポロポテトバーベキュー味だ。それを摘みながら黙ってテレビを観た。道子が好きなアニメの再放送をしていた。このアニメの影響で読売ジャイアンツが好きになった。  また、時計を見上げると、17時少し前だ。道子は立ち上がった。この時間になると少し温かめの上着をつけなくては、外に出るには寒い。道子はジャンパーを手にとり外へ出た。  坂道を降り、駅の方向へと足を進める。横断歩道を渡り、線路の右側に続く道を5分ほど歩くと、そこには保育所がある。 「こんにちは!」 「あら、お姉ちゃん! 今日もお迎えに来てくれたの? ありがとう! 虎徹(こてつ)君、お姉ちゃんがお迎えに来てくれたよ! ジャンパー着ましょうね」 「はーい」  道子の弟は、母が働いているので保育所に通っている。5歳だ。道子とは3歳違いだった。 「おねーちゃん! 僕ね、今日ドッチボールでいっぱいおともだちにボールぶつけたんだよ!」 「ふーん、虎徹はぶつけられなかった?」 「僕はすばしこいからぶつからないよ」 「ふーん」 「おねーちゃんは学校でなにしたの?」 「勉強した」 「ドッチボールした?」 「しない」 「おねーちゃん、学校きらい?」 「きらい」  弟の虎徹は屈託のない性格でよく喋る。道子とは正反対だった。手を繋いで夕暮れの道を歩いた。ねーおねーちゃん、ねーねーという甲高い声が響いていた。  あくる日、道子は学校から帰ると、図書館で借りた本を読んだ。スナック菓子を齧りながら、本を汚さないように気をつけながらページを捲る。ちらちらと時計を見ながら、読み進めている本は、狼と仲良くなる少年の物語だった。  17時少し前になった。道子は立ち上がった。ジャンパーを着こみ。首にマフラーを巻いた。夕方の冷え込みが強くなってきたのだ。坂道を下る。トボトボと歩く道子の背に向かって、ご近所の小母さんが声をかけてきた。 「道子ちゃん!虎徹君のお迎え?」 「うん」 「偉いね! 気をつけてね! そうだ! 道子ちゃん、シベリアもって行きな!」 「いいよ」 「いいから、いいから! 子供は遠慮しないの!」 「したっけ、もらう。ありがとう」 「じゃあね」 「うん」  シベリアは好きだった。カステラの間に挟まる羊羹を先に食べてしまってから、カステラを食べる。しかし、気になったのはどれくらい時間をロスしたかということだった。少し早足になって歩く。  信号にたどり着いた。信号待ちをしている間、道行く人たちが随分と急ぎ足のように見えた。夕飯の支度をするのだろうか、お母さんらしき人が、大きな買い物かごを手にして、片方の手でギャーギャー言っている子供の手を引き、前を駆けて行く子供に大声で「走るんじゃないわよ!」と叫んでいる。  道子はぼんやりとその親子を眺めながら、家に帰ってくると疲れた様子で押し黙りながら夕飯の支度をしている母を思った。  信号を渡り、線路の右脇を通る。道は緩やかな下り坂になっている。5分もすれば保育所が見えてくる。 「あら、お姉ちゃん! 今日もお迎えありがとう! 虎徹君、お姉ちゃんですよ!」 「はーい」 「お姉ちゃん、今日ね、虎徹君、ジャングルジムを降りれなくなったお友達を助けて偉かったのよ」 「ふーん」 「おねーちゃん! 僕ね、先生にほめられたの!」 「よかったね」 「うん!」 「先生、また明日!」 「はい、気をつけてね!」  道子は、虎徹の手をとって歩き出した。 「おねーちゃん! 見て! 夕陽がきれいだよ!」 「そうだね」 「おねーちゃんは、お絵描きする?」 「学校でするよ」 「そう! お日様をかく?」 「描くよ」 「僕も!」  道子は虎徹のお喋りが大嫌いだった。黙って聴いているだけなら我慢するが返事をねだられるのが嫌だった。賑やかな甲高い声が夕陽の映える小道にこだましていた。  来る日も来る日もお迎えだった。ある日、道子は夢中になって本を読んでいて、17時になったのに気づかなかった。17時20分になって、はっと気づいて大慌てで走った。坂道で転んで膝を擦りむいたが、道子は泣いてる暇がなかった。とにかく急いで虎徹を迎えに行かなくてはと、小さい拳に力を込めて握りしめ必死に走った。  保育所に着くと、先生が心配そうな顔をして迎えてくれた。 「お姉ちゃん、今日は用事があったの? 虎徹君待ってるわよ」 「ごめんなさい」 「いいのよ」  見ると、虎徹はもうコートを着せられて、鞄もたすき掛けにしている。その姿で、テーブルで絵本を読んでいた。道子の胸が軋んだ。不満があっても、今までちゃんと遅れずに迎えに来ていたのに、不安にさせたことで後悔の念が襲った。 「虎徹、ごめん」 「うん! なんもだよ! おねーちゃんも学校が忙しいんだもん! 僕、いい子で待ってたよ!」 「うん、帰ろう」 「うん!」  虎徹は嬉しそうに道子の手に掴まった。道子は自分よりも小さい手をしっかり握った。夕陽に向かって緩やかな坂道を登っていった。 「虎徹、家に帰ったらトランプする?」 「する! 僕、神経衰弱したい!」 「うん、しよう」 「おねーちゃんに負けないよ! 僕ね、どこにどのカードがあるかよく覚えてるよ!」 「そうだね」 「うん!」  家に着くと、珍しく電灯が灯っていた。 「お姉ちゃん、虎徹! お帰り!」 「あ! お母さん! 帰ってたの?」 「今日は、早く帰れたんだよ! 虎徹の好きなザンギつくるからね!」 「わーい!!」 「お姉ちゃん、お迎えしてくれてありがとう」 「うん、今日、本に夢中になってお迎え遅れた。ごめんなさい」 「そう……ごめんね。お姉ちゃんだって、自分のことがしたいのにね」 「ううん、いい。明日はちゃんと時間通りにお迎えする」  母は、くるっと台所のほうに身体を向けてしまった。道子が見ると肩が震えていた。道子は母が泣いているのだと気づいた。道子は無機質な気持ちでそれを見つめていた。母が家にいないのはいつものことだ。泣くくらいなら、なぜ仕事に行くのだろうかと道子は不思議なものを見るような気持ちで見ていた。  父のほうは、いつ家に帰っているのだろう。時々、道子が二段ベッドの上で微睡んでいると、父が頭を撫でていくことがある。朝起きて、「お父さんは?」と、聞くと、母からの答えはいつも決まっていた。 「あんたたちが眠ってから帰ってきたけど、もう仕事に出かけたよ」  父とは話したことがない気がした。虎徹が「お父さんは死んじゃったの?」と聞いた時には、母は流石にこれはまずいと思ったのだろう、父がまだ子供たちが起きている時間に帰ってきた。短い時間だったが遊んでくれた。また、職場に戻らなくてはいけないと言って立ち上がった父に、虎徹が放った言葉は道子の記憶に深く刻まれた。 「また、遊びに来てね、お父さん」  母は、また、台所にくるりと体を向けて肩を震わせていた。  札幌の秋はすぐに冬に居場所を明け渡してしまう。初雪が降った。今日も道子は、虎徹を保育所に迎えに行った。  幼い弟の手を引いて、雪が舞い散る坂道を登った。 「おねーちゃん、寒いね!」 「うん」 「おねーちゃんのお手て温かい!」 「うん」 「ねー、おねーちゃん! お家の前に雪だるまつくろうよ!」 「うん、つくろう」  家の前に着いた。家にすぐには入らずに、玄関に幼稚園バッグを放り出して虎徹ははしゃいだ。雪を受け止めようと両手を広げて空に向かって突き出している。 「それじゃあ、雪は集まらないよ」 「どうやるの?」 「こうするの」  道子に倣って、虎徹も両手をお盆のようにして空に向けて差し出した。家の前に積もった雪を丸めて、小さな雪だるまをつくって飾ると、虎徹は更にはしゃいでその周りを走り回った。 「ねー、おねーちゃん!」 「うん?」 「虎徹が大きくなってもお迎えしてくれる?」 「どこに?」 「うん、学校とか!」 「大きくなったら、自分で学校に行けるし、自分で帰って来れるよ」 「やだー!おねーちゃんと手つないで帰る!」 「うん」 「約束する?」 「うん」  道子は渋々指切りげんまんをした。  ――― それから幾星霜が過ぎただろうか……。道子は、長く高い壁を伝って歩いていた。少し緩やかに下る坂をトボトボと降りていく。  分厚い鉄の格子戸に向かって一礼し、弟を待った。ほどなくして、虎徹が姿を現した。 「虎徹、指切りしたから迎えに来たわよ」 「姉さん、律儀に約束守ってくれたのか?」 「まあね」 「姉さん、手を握ってくれ」 「うん」  自分よりも大きな虎徹の手を引いて、白髪まじりの道子は緩やかな上り坂を歩いていった。空からスーッと降りている光の向こうには父と母が笑っていた。 「帰ろう、家に」 「うん、姉さん……」 「何も言わなくていいから」  姉と弟は手を取り合い、無言で家に向かう道を歩き続けた。  了
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