まばゆい約束があった

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まばゆい約束があった

四方を山で囲まれた小さな村だった。 閉鎖的な村だった。 都会から一人父方の祖母の元へ越してきた俺が好奇の目で見られるのは必然と言えた。 大人からの好奇の目は子供だろうと敏感に感じ取り、同い歳の子供達も俺を異なるものとして見る。 村に一つしかない小学校は一学年一クラスしかなく、転校初日には既に俺の居場所がなかった。 それと同時に子供の無邪気さは残忍なものだった。 コソコソとした陰口ならばともかく、わざわざ俺の前へ出て来て「お前、親に捨てられたんだろう」と指差して言う。 大人になった今ではスゲェなこのガキ、で済むが、子供の頃の俺はグッと下唇を噛んで耐えていた。 奥歯が割れるほどに歯を噛み締めて耐えていたのだ。 甲高い声で囃し立てられるのを目を強く瞑りやり過ごしていた時だった。 ガタンと椅子を蹴り倒して立ち上がる音と同時に「うるさい!」という怒鳴り声が響く。 振り返ると窓際の一番後ろの席に座っていた女の子が立ち上がり、俺の方を睨み付けていた。 小動物のように丸みを帯びた瞳がツンとつり上がっていた。 書いたような眉も眉間に寄せられ歪んでいたはずだ。 「子供みたいなことしてんなよ!馬鹿じゃないの!?」 ツカツカと歩み寄って来た女の子はそう言って、俺の席の前に立っていた男子の肩を押す。 男子の方はバランスを崩して尻もちをつき、女の子は仁王立ちに腕組みまでつけて見下ろした。 フン、と鼻も鳴らして。 「な、何だよ。サヨコには関係ないだろ……」 「ないわよ。でも、アンタにも関係ないでしょ。それとも、何?自分が人様の家庭の事情に口出し出来る身分だとでも思ってるの?何様のつもり!」 「う、ぐぅ……」 クワッと白い歯を覗かせて怒鳴った女の子は、まるで小学生とは思えないほどに口が達者だった。 俺は驚いてぽかんと口を半開きに女の子を見つめた。 肩口で切り揃えられた黒いボブヘアーは冷たい蛍光灯の光で淡く輝き、白くまろやかな肌が神々しく、こんな子は前に住んでいた場所でも見たことがなかった。 ぼけらっと女の子を見つめていると、何も言えなくなった男子にもう一度フンと鼻を鳴らした女の子が俺を振り返る。 長い睫毛が剣山のように揃って上を向いた瞳は力強い。 生命力に溢れた黒目はキラキラと光って、俺はその瞳に魅せられた。 「アンタも!」 女の子の人差し指が俺の鼻先へ突き付けられる。 睫毛と違い爪は丸く柔らかに切り揃えられていた。 俺は目を見開いて指先を見つめた。 「言いたいことがあるなら言いなさいよ!そうやって唇噛んでるだけじゃ何も分からないんだからね!」 「……は、い」 喧嘩両成敗というわけではないが、女の子は俺の方にも不満があったらしくピシャリと言った。 呆気に取られつつも何とか顎を浅く引いて頷けば、女の子は満足そうに目を細めて細い息を吐いた。 女の子の名前を知ったのは帰宅後、祖母に聞いてからだ。 「あぁ、財前(ざいぜん)さんのとこの。小夜子(さよこ)ちゃんだね、きっと」 「財前、小夜子……」 小さく繰り返す俺に祖母はホホと笑った。 クラスの男子に絡まれたことは伏せて聞いた話によれば、財前はこの辺りの地主らしく一番大きな家が財前家だと言う。 それなら俺にも分かると頷き、あの口達者ぶりはその育ちからだろうと検討をつけた。 それから数日、多少遠巻きにされることはあれど、クラスの数名といくらか言葉を交わせるようになった俺をあの男子は未だ面白くなかったらしい。 帰り道にドンとリュックを背負った背中を押され、俺は前のめりに倒れ込んだ。 田舎の舗装されていない畦道は小石が多く、地面についた手の平がゴリッと鈍い音を立てた。 「痛ッ……」 上半身を起こし手の平を見れば擦り傷が出来て血が滲んでいた。 顔を上げれば転校初日から絡んできた男子と、未だにクラス内で俺を遠巻きにコソコソと言っている他の男子が二人ほど立っており、嫌味ったらしく笑い、俺を見下ろしていた。 「孤児(みなしご)のくせに、サヨコに庇われて調子に乗るなよ!」 下からジロリと睨み上げれば、男子はそう言って俺のリュックを蹴る。 立ち上がろうとしていた俺はまた転がる。 「ナヨナヨしやがって」 「都会から来て、田舎だってバカにしてんだろ」 揃いも揃ってそんなようなこと口にした。 ナヨナヨも何も小学生は大体似たような体躯だ。 都会でも田舎でも俺にはどうでも良かった。 うるせぇな、と口の中で呟いて立ち上がった俺は胸を張って三人を睨み付けた。 「うるせぇな」俺はちゃんと口に出した。 俺が言い返してくるとは思わなかったのだろう、三人は目を見開く。 「じ、事実だろうが!生意気なんだよ!」 バッと突き出された手が俺の肩にぶつかる前に、俺の視線の先からバッと飛んできた彼女がランドセルを振り回して男子を三人ド突き回す。 「え」間の抜けた声が漏れ、俺の前に立ち塞がっていた三人が先程の俺のように畦道に転がるのを見た。 「まーたやってる」 深い赤色のランドセルを鈍器にしていた彼女は倒れた三人を見て、呆れた声と共にランドセルを背負い直す。 「財前さん……」 「助けに来たつもりだけど、ちゃんと言い返せてるじゃない」 何度か瞬きをして名前を呼べば、彼女はニッと白い歯を見せて笑い親指を立てた。 口角に合わせて上がった頬に笑窪が出来ている。 俺はその柔らかな窪みを前にどこか気恥しい気分になり、いや、とか、その、とか曖昧な言葉を転がして倒れ伏した三人を見た。 「サ、サヨコ……」 「懲りないわね。アンタらも」 「お前こそ、何でソイツのことなんて庇ってるんだよ!ソイツのこと好きなのかよ!?」 「うん。寄って集って底意地の悪いことしてるアンタらより、一人でもちゃんと立ち上がって言い返した方が格好良いもの。どっちが好きかなんて、分かりきったことじゃない」 ツン、と鼻先を田んぼの方へ向けた彼女に、前回今回共に一番最初に俺に絡んできた男子は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。 他の二人は気まずそうに俺達から視線を逸らす。 俺は何だか肩透かしを食らった気分だった。 「行きましょう。朝人(あさと)くん」 彼女は俺の名前を呼んで、俺の手を引いて歩き出す。 一、二歩引きずられるようにして歩き、俺は慌てて自分の力で三歩目を踏み出した。 三人は追い掛けて来ず、彼女は三人の姿が見えなくなった頃にピタリと足を止めて振り返った。 「スッキリしたでしょう」 彼女は俺の手を離し、垂れた横髪を耳に掛けながら言った。 形の良い白い耳が露わになる。 俺は「どうだろ」と首を傾げた。 スッキリするよりも先に彼女の登場に驚いたのだ。 彼女は呆けたような俺の様子が面白いのかクスクス笑う。 「あの、財前さん」 「小夜子で良いよ。サヨちゃんでも可」 「……サヨちゃん」 自分で言ったくせに呼べば更に笑う。 笑窪が二つ浮かんだ頬を見ながら俺はリュックを持ち手を指先で弄る。 「助けてくれてありがとう」 「ううん。別に助けてないでしょう。だって、ちゃんと自分で言い返せてたんだから」 彼女はヒョイと肩を竦めて歩き出す。 隣に並ぶようにして俺も歩く。 滑らかな横顔を眺め口の中でだけ小夜子と転がす。 小さな夜の子。 彼女に良く似合う名前で、名は体を表すという言葉を思い出す。 墨を垂らしたような髪は艶やかに光り、長い睫毛に囲まれた黒目は良く澄んで磨き抜かれた鏡のようだった。 相反する白い肌が月明かりのように浮かび上がる。 服装も襟付きのブラウスに濃紺のスカートが良いところのお嬢さんらしい。 前を向いていた彼女がフと俺を振り返り「でも」と言う。 眉尻が微かに下がる。 「何かあったら言って頂戴。きっと助けてあげるわ」 彼女は胸を張ってそう言った。 目を瞬いた俺は「何で」と呟いていた。 目に掛からないように丁寧に切り揃えられた前髪をサラリと揺らし、彼女は小首を傾げて尖らせた唇に触れる。 指の腹で上唇を数回押して「好きだから?」と続けた。 曖昧な疑問符に俺も首を傾げる。 同じ方向へ首を傾げながら見つめ合えば、暫くして彼女はコロコロと笑い「人の少ない村だもの。仲良くしましょう」とまるで大人みたいに言った。 子供の好きは柔く丸く輪郭が薄い。 彼女も俺もこの話を特に気にすることなく、翌日から良く話すようになり、帰路を共にするようになった。 大人になって良く聞く男女の友情は成立しない、という話は少し誤解があり、幼少の頃は成立したはずだと思う。 俺と彼女は友達だった。 小学六年生、中学校へ上がるまでその村に俺はいた。 俺を祖母の元へ預けた父親は最初こそ毎週末に様子を見に来ていたが、時が経つに連れ二週間に一回、一ヶ月に一回、最終的にはお盆と年末年始しか来なくなっていた。 先日来た時には見覚えのない指輪を嵌めており、祖母は俺を二階へ上げて父親と話し合いをしていた。 俺を抜きにした話し合いの結果、俺は父親の元へ戻ることになっていた。 子供というのは総じて無力なものだ。 親の勝手と決定によって振り回され、決定権は存在しない。 帰路を共にするサヨちゃんと別れる前に俺は彼女を呼び止めた。 彼女は俺が呼び止めたことに不思議そうに振り返り、丸い瞳に俺を映して首を傾げる。 小学六年生になった彼女は容姿もまた大人びていた。 白い肌は更に透き通るように白く、ボブヘアーだった黒髪は伸びて胸元へ流されている。 女の子というのは早熟だ。 「俺、中学には向こうに戻るんだ」 リュックを背負い直して言えば、彼女は面食らった様子で桃色の唇を薄く開いた。 赤い舌と白い歯が覗く。 「え。あ……また引っ越すの?」 「うん。この前、父さんが来た時に決まった」 「そう、そっか。でも、卒業まではいるんだよね?」 彼女は伏し目がちに俺を見た。 長い睫毛が影を落としているのを見ながら頷く。 それを見た彼女はまた「そっか」と呟き、そのまま黙った。 俺も何を言えば良いのか分からずに口を噤む。 沈黙が俺達の間に横たわり、まるで距離を測れなくなる。 まだ夏の終わりで卒業までは時間があった。 それでも俺は黙っていられなかったのだ。 目を伏せて地面を眺める彼女が、真っ白なスニーカーが汚れるのも気にせずに爪先で地面を削る。 その様子を見ていると俺は鼻の奥がツンと痛んだ。 「え。あれ。えっ!泣いてる?!嘘ッ」 「……泣いてない」 「何で嘘つくの。泣いてるじゃない」 「泣いてない。汗だから。残暑だから」 「えぇ……。凄い雑な嘘つくじゃないの」 顔を上げた彼女が目を見開いて俺を見ると、大慌てで両手を伸ばして俺の頬を挟んだ。 柔い手の平はしっとりと冷たい。 困ったように眉を下げて笑う彼女の瞳には慈愛の色さえ浮かんでおり、ふふと笑うと「目玉が溶けちゃうわ」と言う。 彼女の口振りは相変わらず小学生らしからぬものがあった。 細い指先で目元や頬を拭われながらジッとしていると、彼女の方からまた口を開く。 「ねぇ」と子供に言い聞かせるような優しい声音だった。 「向こうに帰っていじめられたら教えて頂戴ね。きっと助けに行くわ」 「サヨちゃんが?」 「ええ。きっと。約束するわ」 指切りもしましょうか、と差し出される小指は簡単に折れてしまいそうなくらい細い。 俺はおずおずとその小指に自分の小指を絡めた。 折れないだろうか、不安に思いながら。 「ううん。次は俺がサヨちゃんを助けるよ」 ゆらゆらと上下に手を揺すられながら言えば、彼女は「えぇ?」と高く笑う。 信じられないとでも言うように。 その頬には柔らかな窪みが出来ており、俺も笑った。 「約束。今度は俺がサヨちゃんを助けるよ」 俺がそう言って彼女は「じゃあ、約束ね」と小指を解く。 それから「また明日」と俺達は別れた。 翌日も同じように過ごし、小学校を卒業するまで俺と彼女は一緒だった。 *** 「相変わらずの田舎だな」 フと振り返って続く畦道を見た。 四方を山で囲まれた小さな村は自然豊かと言えば聞こえは良いが、あるのは緑ばかりだ。 肩を竦めて前を向き直れば、田舎特有の土地の広さを活用した日本家屋がある。 開きっぱなしの門を潜り抜け、玄関前のインターホンを押し込む。 扉越しに聞こえてくる足音にネクタイを締め直す。 「はい。いらっしゃいませ」 恭しく下げられた頭にニコリと微笑み、肩を押して玄関へ身を滑り込ませる。 「え。あ、ちょっと!」制止の声を無視し、土足のまま廊下へ上がり、部屋の奥を目指す。 使用人らしい人間が現れては行く手を阻もうとする。 その襟首を掴んでは、開けようと思っていた襖へ放り、一つ一つの部屋を確認した。 目当てのものは見付けられず奥座敷へ辿り着いた俺は、手で襖を開き中を改める。 奥座敷にいたのは白無垢姿の女と、着物姿の女、袴姿の男の計三人だった。 白無垢姿の女は俺を目視すると「あ」とか細い声を漏らす。 着物姿の女は金切り声で何かを言っているが、あまりに高い声で言葉の輪郭が危うい。 袴姿の男は俺を前にサッと顔を青ざめさせて「なん、おま、どう」と唇を震わせた。 言葉を上手く出せなくなっている。 「何でお前がどうして、か?」 俺は奥座敷へ足を踏み入れ、男の前に立った。 背の低い男の目の前に立つと影を落としてしまう。 影になった男はガタガタと震え出し、そのまま膝から崩れ落ち、あまつさえ漏らしそうだ。 「お前が金を持ち逃げしたから、俺がわざわざ、回収しに来たんだろ。それともあれか。絶対にバレない自信でもあったのかよ」 俺は男の顔を見下ろしてハハと笑う。 冴えない男だった。 目鼻立ちの薄い、ついでに言えば頭皮も薄い男で、そういう薄さが幸の薄さに繋がっている男だった。 袴でも締め付けきれない膨れた腹に靴裏を叩き込み、俺は「勘弁してくれよな」と告げる。 「こんな田舎まで来て婿入りすれば身を隠せるとでも思ったのか?安易だなぁ。安直だなぁ。……まぁ、多くは海外に飛ぶから意外と言えば意外なのかもな。それでも、結果はこれだ。つまり、お前の見積もりは甘かったってことだ」 畳の上に転がった男は噎せて俺に答えなかった。 やだねぇ、やだやだ、と呟きながらダルマのように丸い体に足を乗せて、揺らすように転がしてやる。 ヒィ、と上がった悲鳴は着物姿の女だった。 白無垢の女は紅い唇を引き結んで俺を凝視している。 俺は足を下ろして、白無垢の女に「なぁ」と声を掛けた。 白無垢の女はマスカラで重たげな睫毛を揺らす。 「お金、どこにあるか分かる?」 俺の問い掛けに、白い指先が天袋へ向けられる。 礼を言って天袋を漁れば、確かにアタッシュケースが出てきた。 中身を確認していると着物姿の女が「それはもう我が家のものよ!」と叫ぶ。 視線をやれば、厚い化粧でも隠しきれない皺が浮かんでいる。 背筋はシャンと伸びているが顔つきは六十過ぎだ。 アタッシュケースの蓋を閉めながら、へぇ、とか、ほぉ、とか適当に相槌を打つ。 気のない返事の俺がカンに触ったのか、着物姿の女は唾を飛ばしながら続ける。 「この子を結婚させる為の資金なのよ!」 「面白い冗談だな。結婚させる為の資金じゃなくて、結婚する代わりに貰うはずだった金だろ。そもそも、元はと言えばウチの金であって、そこの馬鹿の金じゃねぇし」 そこの馬鹿と指し示した男は未だに床に転がったままだ。 情けないねぇ、と溜息を吐いてアタッシュケースを小脇に抱える。 「娘を売って得た金で食う飯は美味いか?なぁ、答えろよ」 大股一つで簡単に詰められる距離、グッと背中を丸めて近付けた顔に、着物姿の女は悲鳴を上げて尻もちをつく。 年老いて出来た歯の隙間からシーシーと荒い息を漏らしているのを横目に、俺は白無垢の女を見た。 白無垢の女は最初から今まで床に座ったままだ。 目の前まで移動し、しゃがみ込んで目線の高さを合わせれば、紅い唇がハクと開く。 「朝人くん」掠れた声はそれでも丸みを帯びている。 俺は指の腹で開いた唇を拭って「サヨちゃん」と返した。 紅色が落ちると桃色の淡い唇が姿を現す。 元々白い肌にこれでもかと乗せられた白粉は粉っぽく、マスカラは厚く重たげ、拭ったが紅い口紅は毒々しかった。 「化粧、似合わないね」綿帽子を脱がせながら言えば、サヨちゃんはゆるりと体の力を抜く。 まとめあげられていた黒髪が一房、垂れ落ちて額に掛かる。 「違うわ。化粧が似合わないんじゃないの。この化粧が似合わないの」 「あぁ、そっか。それはごめん」 「いいえ。良いのよ」 サヨちゃんは音もなく首を振る。 男の足取りを追う際、この村へ辿り着いたのと同時にサヨちゃんのことも調べた。 中学校はこの村、高校はこの村から一番近いところ、大学へ出ることは叶わず、この家で花嫁修業のようなことをさせられていたらしい。 女に学業は不要、という今時有り得ない古臭い考えの元にサヨちゃんは縛り付けられていた。 挙句、ここ最近の情報に至っては、地主である財前家は没落寸前。 そこに目を付けた男が持ち逃げした金を使って婿入りを企み、サヨちゃんの両親はそれに全面同意。 唯一、サヨちゃんだけがそれに抵抗を示していた。 本来なら俺が出向く必要のない仕事ではあったが、着いてくると言った部下すら蹴散らして一人やって来たのだ。 恐らく、サヨちゃんがその結婚に同意していれば来ることはなかっただろう。 俺から視線を離さないサヨちゃんを見ながらそう思う。 「ねぇ、朝人くん」 サヨちゃんはそっと手を伸ばし、細い小指を見せた。 相変わらず簡単に折れてしまいそうな細さで心配になる。 子供の頃は丁寧に切り揃えられていた爪を思い出すが、目の前の爪は長めに放置された様子が見えた。 「いじめられなかった?」 「……ははっ。うん。大丈夫。俺、強くなったから」 「そっか。背も大きくなったものね。スーツも似合ってるわ」 「有難う。サヨちゃんに褒められると自信つくよ」 昔はほとんど同じだった目線の違いを、座り込んだままでも感じたのだろう。 眦を下げてサヨちゃんは浅く頷いた。 良かった、と細い息すら吐く。 俺のことを心底心配していた様子に俺も笑ってしまう。 場違いにも声を立てて笑う俺に、サヨちゃんは俺の小指に自分の小指を絡める。 小指一本だというのに滑らかな冷たさがあった。 指先が冷えているのだ。 俺が少しでも熱を与えられるようにと小指を絡めれば、サヨちゃんは流麗な眉を下げて小さく震えた。 「ねぇ、朝人くん」 「うん」 「それじゃあ、私のこと、助けてくれる?」 一瞬、目を伏せたサヨちゃんは次に俺を見る時、黒々と濡れた瞳から一粒の涙を零した。 小さく丸い粒はまろやかな頬の上をツルリと滑り、鋭角な顎へと滴り落ちる。 「勿論」 俺は笑って答えた。 持っていたアタッシュケースをサヨちゃんに持たせ、そのサヨちゃんを抱える。 「待ちなさい!小夜子!!」 「その子は俺の妻だぞ!」 奥座敷に残していく女と男がそれぞれ叫ぶ。 俺は最後に男を蹴り上げ、女から伸びてきた手を大股で避け奥座敷を飛び出す。 入る時には手で開けた襖を蹴り飛ばし、俺の腕の中で驚きの悲鳴を上げるサヨちゃんに笑い声を上げる。 騒ぎを聞き付けて集まってくる奴らを足だけで薙ぎ倒していると、サヨちゃんがアタッシュケースを振り回し出す。 俺の顎も掠める勢いだ。 「近付かないで!」サヨちゃんの声には張りが戻っていた。 そのまま財前家を飛び出し、呼び出しておいた車に飛び乗る。 黒塗りの車は俺達が乗り込めば直ぐに発進し、後部座席の俺達は座席の上で転がって笑った。 サヨちゃんはボロボロと涙を零しながら笑っていた。 マスカラが落ち、白粉と一緒に流れている。 頬に出来た黒い筋を拭って、そこに柔らかな窪みを見つけた俺は、どうしようもなく胸を締め付けられて唇を寄せた。 小さな窪みに歯を立てて、キツく結えられた髪を解きながら小さな頭を撫で回す。 くちゃくちゃになったサヨちゃんに、いつか俺が言われたように「目玉が溶けるよ」と告げる。 サヨちゃんはいつかの俺のように「汗よ」と雑な嘘をついた。
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