8. 毒華

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「……それで、司礼監の翠月とはどういう関係だ?」  寝所を去り際に、芳玉が一言尋ねてきた。唐突に出て来た人名に白檀は首を傾げる。 「翠月様と? いえ、特には――」 「あの日、後宮でお前を手当てしたのは翠月だそうだ」  初めて耳にしたその話に思わず耳を疑った。 (な、何で翠月様が私を⁉)  翠月とは清明節で顔を合わせたきりだ。何やら凝視されてはいたが、言葉を交わしたこともない。一応は環家の人間である白檀を見ず知らずの翠月が助ける理由などない。いや、相手にとっては損ですらあるだろう。事態を掴めない白檀の前で、芳玉は機嫌の悪そうなしかめっ面を浮かべている。もしかしたら太后方への内通を疑われているのかもしれない。陛下を裏切る者は全員殺す、というような態度を常に取っている芳玉の手前、白檀は慌てて釈明する。 「私にも分かりませんよ! 本当に何の関係もないんですから……」 「銀英によると、借りがあるだとか。『あなたの小月』とか言っていたようだが、親密そうじゃないか」  何だそれは、と記憶を巡らせてから、白檀は「ああ!」と大きな声を出した。拷問官も顔負けの圧を醸し出していた芳玉が怪訝そうな瞳を向けてくる。  昔、まだ幼い頃。  近所の子供たちの中で少しだけ年上だった白檀は必然的に年下の面倒を見ることが多かった。その中で、子供たちの群れから外れていつも泣いている子がいた。おかっぱにした黒髪と満月のような金色の瞳が印象的だったことを覚えている。 『何で泣いてるの? 家はどこ?』  ある雨の日、細路地の端に座り込んでぐすぐすと泣くその子に白檀は傘を差しかけた。自身にかかる雨粒が遮られたことに気が付いたのか、少し遅れて短い髪が揺れる。 『家には帰んない……父さんが、殴るから』  その家の父親は、飲んだくれのろくでもない親父だという専らの噂だった。白い頬に赤く腫れた痕を残して涙を浮かべたその姿に立ち去ることも躊躇われ、白檀は横に腰を下ろした。早熟だったとはいえ所詮子供の力では何をすることもできない。傘に当たる雨の音を聞きながらただ黙って座っていると、 『……お姉さんは帰らなくて良いの? お母さんとか、心配するんじゃないの?』 『うん、大丈夫。うちは父さんも母さんもいないから』 『……っ、ごめんなさい……』  下を向いて謝るその姿に、白檀は慌てて手を振る。気を遣って欲しいわけではなかったのだが、失言だった。つい数か月前の火事の話は近所でも記憶に新しく、すぐにその生き残りが白檀だと気が付いてしまったのだろう。 『まあ、人間生きてたら良いこともあるかなあと』  頬を掻きながらそんなことを口にして、白檀は年下の子供の涙を拭ってやった。  それからは、何かと白檀が面倒を見ることが増えた。年の割には小柄でいつも泣いているので悪餓鬼たちの標的になることも多く、放っておけなかったのだ。しかし、元々各地を転々とする生活を送っていたその子はいつの間にかどこかに越してしまっていた。白檀も日常の些事に追われ、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。「泣き虫小月」と呼んで可愛がっていた、年下の少女のことを――。 「……ずっと女の子だと思ってたんですけど……」  白檀の昔語りを黙って聞いていた芳玉は「普通気が付くだろう」と呆れたような声を上げた。 「だって、本当に可愛かったんですよ! 背も私より低くて、声も高かったですし……」  白檀だって驚いているのだ。妹分だと思っていた小月が実は男の子で、何の因果か司礼監小監になっているなどと。確かに、幼い頃の美少女っぷりを思うと、翠月の中性的な見た目も頷けるというものだが。 (……ということは、芳玉様の幼少期ってどんなだったんだろう?)  きっと傾国の美少女だったのだろう、なんてことを考えてから白檀はゆっくりと息を吐いた。 「そうか、でも元気だったんですね」  小月がどのような経緯で宦官になったのかは分からないが、今も生きていてくれたことは素直に喜ばしい。それに、向こうは未だに白檀のことを覚えていてくれたのだ。 「借りがあるなんて。私には彼を助けられなかったのに」  父親に暴力を振るわれていると知っていても結局は何もできなかった白檀に、自らの立場を危うくしてまで恩義を感じる必要などないというのに。しかし、芳玉はじっと下を向いてから首を振り、小さく呟いた。 「例え救われなくても、現状が何も変わらなかったとしても、その存在だけで光になることはある」  珍しく過去を想うような表情を浮かべた芳玉に、白檀はそれ以上聞き出すことができなかった。
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