2. 取引

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「……けっ、こん?」  何か企んでいるようだとは思っていたものの、予想外すぎる芳玉の言葉に白檀は完全に呆気に取られていた。 「そうだ」  芳玉はそう答え、机の向こう側へと戻っていった。先ほどまでの丁寧な立ち居振る舞いは消え、口調もぶっきらぼうで砕けたものに変わっている。 「本当なら結婚など面倒でしたくはないのだが、独り身でいると色々と厄介事に巻き込まれてな。私個人の問題で陛下にご迷惑をおかけするわけにはいかない」  芳玉の言う「厄介事」に関しては、とある女官が芳玉に一目惚れして大量の文を連日送りつけた、名家の令嬢が芳玉を巡って勝手に刃傷沙汰を起こした、芳玉の自室から愛用の筆や湯呑が盗まれた等々後宮でもゴシップが飛び交っている。白檀はその手の話を耳にする度に、あまりに美しすぎるのも難儀なものだと芳玉に同情したくらいである。その上、芳玉の麗しい容姿は女性陣にも大人気であるが、同時にその中性的な美しさは宮中の男たちも魅了する。畏れ多くも皇帝陛下と芳玉の関係をこっそりと妄想して喜んでいる宮女も後宮にはいるくらいだ。 「つまり結婚することで女性陣の熱を冷まし、妙な噂を払拭したいと」 「そういうことだ」 「ですが清香君ともなると、結婚相手など他に掃いて捨てるほどいらっしゃると思いますが」  白檀はつれなく答える。いくら結婚を急ぐとはいえ、一度しか会ったことのない白檀を選ぶなど理解しがたい。 「まあな。縁談なら山ほど来ている。だが、これ以上家同士の問題に巻き込まれるのは御免だ」  貴族の結婚とは個人同士のものではなく、家同士のものだ。環家と関係が結べるなら自分の娘など喜んで差し出すという貴族は大勢いるだろう。芳玉がどの家の娘を選んだとしてもその一族の勢力が増し、宮中の政治的均衡が崩れるのは目に見えている。 「それに、穏やかで優しい『清香君』を家でも演じるのは流石に骨が折れる。女は好きではないし、妻のご機嫌取りをするほど私も暇ではない」 (演じるとか言っちゃったよ、この人)  志怪小説に登場するこの世ならざる佳人の正体は大抵狐か幽鬼かなのだが、白檀の目の前に座るこの男もその容姿に反して案外腹黒で毒舌な本性を隠し持っていたらしい。 「その点私は孤児で一族がしゃしゃり出てくる恐れもなく、清香君を目の前にしても呆けたり物怖じしたりしなかった。適任というわけですね」  白檀も知らず皮肉っぽい口調で返す。芳玉は机の上で手を組み、頷いた。先ほど妙に近寄って来たのは、白檀が彼の美貌に反応しないかどうかのテストだったのだろう。 「結婚とはいっても、ただ書類上私の妻になるだけだ。夫婦としてそれ以上のことは望まないし、私にも望まないで欲しい」  芳玉がまるで突き放すかのように言った。だが、出会って2回目で恋だの愛だの言われるくらいなら、はっきりと契約結婚だと言ってくれた方が白檀にとっては理解しやすい。 「君の家庭状況は調べさせてもらった。質に物を入れたりと、金銭的に困っているようだが」 「そうですね」 「全額私が負担しよう。今後、君の衣食住の面倒も見る。それと、君には弟がいたね。名は項宋薫、年は17。今年の武科挙を受験している」  弟の話を引き合いに出され、白檀はぴくりと眉根を動かした。 「私がこの話を断れば、弟を不合格にするとでも言いたいのですか? それとも、私がこの話を受ければご自分の権力を使って弟を出世させるとでも? 私は常々弟には自分の才覚一つで成り上がるように教えてきました。下手な手出しは無用です」  そう答える白檀の口調には僅かに怒気が含まれている。確かに白檀は金や出世には目がない。それでも、人の権力に甘んじてまでそれらを手に入れるつもりはない。 「そうではない。武科挙の結果は既に決まっているし、私も手を加えようなどとは思っていない。ただ、君たち姉弟は共に非常に優秀だが、いくら才能があれど家格に縛られるのがこの国の現情。私が君たちの後ろ盾になれば、もう少し動きやすくなるだろう」 (一応は私たちを認めてくれてるってこと?)  芳玉の言葉に、白檀は溜飲を下げた。 「分かりました。ですが一つ質問がございます。」 「何だ?」 「こちらの得る利益が大きすぎるような気が致します。私はお金を頂き、衣食住も全て清香君が負担なさる。その上、私と弟の宮中での後見も約束してくださいました。ですが、その見返りとして清香君が得られるのは妻を手にしたということだけです。名門貴族の環家と我が家ではあまりにも家格が違いすぎますし、私と清香君では色々と釣り合いが取れません」  いくらお飾りの妻とはいえ、それにしては条件が良すぎる気がする。怪しむ白檀に、芳玉はあっさりと返した。 「もちろん君には私のためにそれ相応の働きはしてもらうし、使えなければ直ちに切り捨てる。それに、先日の宴の一件で君にも分かったと思うが、現在我々皇帝派の立場は非常に弱いし、私には敵が多い。私の禁伺長という立場と環の名は君の役に立つと同時に、いらぬ足枷となる場合もある。迷惑料だと思ってくれて良い」  芳玉の言う通り、この国では皇帝だからといって最も権力が強いというわけではないらしいということは白檀にも分かっていた。皇帝派の芳玉についていくことが最も出世できる道であるとは限らない。 「それで、どうする? この話、受けるか受けないか君次第だが」  うっすらと笑ってそう問いかけてくる芳玉の表情は、桃李の宴で愛想を振りまいていた人物と同じとは到底思えないほど、鋭く冷たい。だが、白檀は不思議とこの男を不快には思わなかった。  宮中の者は皆本音が見えない。澄ました顔の官僚たちも美しく着飾った妃たちも、腹の底では互いの足を引っ張り合うことしか考えていない。その中で、この男は自分と同類だと白檀の勘が告げていた。二人に共通するもの、それは権力欲だ。だが、この国の貴族たちにありがちな、自分の権力の上に安住して保身に走るような陰湿なものではない。強くなりたい、偉くなりたい、周囲を見返してやりたい、とひたすらに上を目指してもがき続ける、燃え上がるような野心。 (性格は良いとは言えない。だが信頼はできる)  別に結婚に対して何か理想があったわけでもない。相手は眉目秀麗、成績優秀、将来有望の禁伺長・環芳玉。いくら皇帝派に力がないとはいえ、普通に生きていてこれほどの好機に恵まれることはないだろう。それに―― 「そもそも、ここまでご自身の手のうちを示しておいて、私に断る選択肢などないのでしょう? 本当に、良い性格をしていらっしゃる」  皮肉めいてそう言うと、芳玉は軽く肩をすくめた。 「……分かりました。このお話、お受けしましょう」  白檀がすっと手を差し伸べると、芳玉もその手を握り返した。 「それでは交渉成立ということで。これからよろしくお願いいたします、白檀さん」  そう答えてにこりと微笑んだ芳玉は、既に雅で優しい「清香君」に戻っていた。
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