2. 取引

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 通常の婚姻であっても、結納から式まで二月はかかるのが普通である。それを芳玉は僅か3週間足らずで終わらせた。いくら仕事の早い禁伺長とはいえ、このあまりの迅速さには白檀もびっくりである。気づけば現実感の全くないまま、白檀は結婚式の夜を迎えていた。 「奥様、よろしいですか?」 「え? あ、はい」  隣にかしづく年配の侍女に促され、白檀は目の前の鏡を覗く。普段化粧気のない顔には白粉がはたかれ、真っ赤な紅がさされている。髪にも丁寧に櫛がかけられ、白檀にはどうなっているのかよく分からないほど複雑に、美しく結い上げられている。 (こうして見ると、なかなか良いじゃない……)  見慣れぬ姿に自分でも驚く。 「ご用意できました。どうぞ」  赤い花嫁衣裳の裾を踏まぬようにゆっくりと歩いて外へ向かうと、門の前に赤い花で飾りつけられた花轎(かきょう)(婚礼の際に花嫁が乗る輿)が一台停まっているのが見えた。花轎を覆う真っ赤な絹織物には金糸で鳳凰や蓮の花といった縁起物が細かく刺繍されており、一目で高価なものだと分かる。  花轎は本来花嫁の家と花婿の家を結ぶものである。しかし白檀の場合自宅といってもあのボロ家しかない。そのため環家の離れと使用人を貸してもらって身支度を整え、その後本宅へと向かうことになっていた。つまりは形だけの花嫁行列でしかないのだが、それでもこれほど手間と金を掛けられるのは流石宰相家としか言いようがない。  ゆらゆらと輿に揺られて四半刻(30分)ほど、突然屈強な担ぎ手たちが足を止めた。赤い面紗(ベール)を顔に掛けているため視界がはっきりとしないが、ようやく本邸に着いたようだ。 「もう準備は済んだか?」 「はい」  輿の垂れ幕の向こうから声がしたと同時に、白くほっそりとした手が差し出される。爪の先は綺麗に整えられているが、掌に所々硬いタコのようなものができているのが分かる。白檀は差し出された手を無視してよいしょと輿から飛び降り、目の前に立つ未来の夫の姿を見た。その瞬間、先ほどのささやかな自信が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。白檀は今まで質素な宮中服を着た芳玉の姿しか目にしたことが無かったが、婚礼用の華美な服に身を包み、軽く化粧を施したその姿は美神も嫉妬して天界に連れ去ってしまいそうな美しさである。真っ直ぐに下ろした、濡れたように黒い髪が赤い婚礼服に良く映え、すっと切れ長の目尻に引かれた紅が壮絶な色気を醸し出している。 (この人の隣に座るの嫌だなあ)  面紗の下で苦々しい顔をする白檀を連れて、芳玉は式の行われる広間へと進んでいった。転ばぬよう足元を凝視しながら、芳玉が歩く度に微かに揺れる鈴の音を頼りに広い屋敷の中を進んでいく。  白檀が広間に足を踏み入れた瞬間、その場の視線が一気に白檀に集まった。会場には芳玉の親族や、宮中の要職に就く高級官吏たちがずらりと居並んでいる。この空間で白檀だけが名も顔も知られていないただの中級官吏の娘に過ぎないのだ。四面楚歌のその状態に思わず足どりが重くなり、ぎゅっと装束の裾を掴む。その時、絶えず鳴り響いていた涼やかな鈴の音が途絶えた。微かに顔を上げると、芳玉の背中が止まっているのが見えた。白檀が歩き始めるとその背中もまたゆっくりと動く。それからは足を止めることもなく、無事広間の最奥に位置する高座へとたどり着いた。  香国の伝統的な婚礼の儀では挨拶の文句を口にするのは新郎だけであり、新婦は一言も言葉を発さなくて済む。事前に芳玉にみっちりと叩き込まれた台本を頭に浮かべ、ボロが出ないように必死に振舞うことで白檀の頭は一杯である。誓いを立てる盃を交わす段になっても、他人の式を見ているような、どこか不思議な感覚が抜けなかった。  堅苦しい儀式がようやく終わると、後は飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。新郎の芳玉が人当たりの良い微笑みを浮かべて如才なく立ち回っているのを横目に見ながら、白檀は一人主役の席に大人しく座っていた。酔いも回って段々と眠くなってくる。幸い顔には面紗がかかっているので、少しくらい目を閉じていてもバレはしない。うつらうつらしているうちに、肩が叩かれているのに気が付いた。 「起きろ」  目を開けると、面紗ごしに芳玉がこちらを覗き込んでいる。ぼんやりと辺りを見渡すと、宴の参加者は皆したたかに酔い、眠り込んでしまっているようだ。 「皆酔いつぶれてしまったから、今日はもうお開きだ」  芳玉も各方面に御酌に回り、相当に酒を飲んでいるはずだ。それでも酒には強い体質なのか言動はしっかりとしており、今も客人を部屋に連れ戻すように使用人たちにてきぱきと指示を飛ばしている。  白檀は先ほど婚礼衣装の支度をしてくれた侍女に連れられて控室に戻り、化粧を落として風呂に入る。緊張でかちこちになっていた体に熱い湯が染み入るのを感じる。楽な寝間着に着替えてしまえば、後は寝るだけだ。寝室へと案内された白檀がすぱんと扉を開けると、同じく寝間着に着替えた芳玉が気まずそうな表情を浮かべて突っ立っているのが目に入った。 「おやすみなさいませ」 「……」  侍女がそそくさと去り、二人はしばし無言で見つめ合う。目の前には立派な寝台が一つ。そう、一つしか置いていなかった。 (いや……まあ一応新婚だからね)  今や芳玉と白檀はれっきとした夫婦。寝室も寝台も共にするのが当たり前というものだ。だが、こういった具体的な事態に関して、二人は特に取り決めを行っていなかった。 「あの······」  じとっとした目つきで芳玉に声を掛けると、 「私の家では、もちろん寝室は二つに分ける予定だ。だが今は······」  芳玉が歯切れ悪く答える。今二人が環家の邸宅にいる以上、今更部屋を分けようとすれば周りの使用人に不審がられるに違いない。 (仕方ないな)  腹を括った白檀は、疲れ切っていて一刻も早く横になりたかったこともあって、そそくさと布団の中に潜り込んだ。 「……どうするつもりだ?」  未だに部屋の中央に佇んだままの芳玉が、困惑した声で尋ねてくる。 「どうって、今晩は私がこっちの端で寝ますので、芳玉様はそっち側で寝て下さい」  幸いなことに豪華な寝台は大人三人はゆうに眠れるほどの大きさで、端に寄れば同じ寝台とは言えさほど気にならない。 「いや、しかし……」 「大丈夫ですよ。芳玉様は私に興味がありませんし、私も芳玉様に興味ありませんから。……芳玉様がお嫌なら、私はその下で寝ますけど」  白檀はそう言って、固い床を指さす。元々半ば壊れたような家で暮らしていたため、雨露さえしのげれば白檀はどこでだってすぐに寝付ける。真面目な顔で床を指さす白檀に、芳玉は一瞬ぽかんとした顔をしてから、ぷっと吹き出した。 「君は、本当に図太いな」  口元に手を当て、大笑いする芳玉の表情は、常にどこか達観したような笑みを浮かべている彼を年相応の青年に見せた。 「大体、式の最中に居眠りする花嫁など、私は初めて聞いたよ」  思い出したように笑い転げる芳玉に微かにむっとし、白檀は拗ねた振りをしてぷいと芳玉に背を向けた。 「……私が床で寝ようか?」 「そういうわけにはいかないでしょう」 「でも、君だって床で寝ようとしていたじゃないか」 「そりゃあ私は良いですけど、芳玉様は固い床で寝たことなどないでしょう? そんなことされたら私だって寝づらいですよ」    白檀と違って芳玉は貴族のお坊ちゃまなのである。流石に彼を一人床で寝させて、自分は寝台を独占する気にはなれない。二人で寝台で寝るか、白檀が床に移動するか、この二つのどちらかしか許さないという風に頑なに背を向け続けていると、 「……それじゃあ失礼する」  しばらくの沈黙の後、背後からごそごそと芳玉が布団の中に入って来るのが分かった。案の定、広い寝台の上では体がくっつくこともなく、楽に眠れそうだ。 「おやすみ」 「おやすみなさい」  そう呟くと白檀は目を瞑り、すぐに深い眠りへと落ちていった。
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