3. 出仕

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 沈香宮。  老年の女官の後に続いて訪れたその宮殿は、なるほど立派とは言い難かった。廊下の木板は足を滑らせる度にきいと音を立てて軋み、鬱蒼とした茂みに遮断された建物は薄暗い印象を与える。流石に白檀の実家ほどではないが、四夫人の一人が住まう宮殿だとは到底思えない。天井に施された鳳凰の飾りは既に色褪せ、色の異なる細木を組み合わせたその意匠は少なくとも三代は前のものだろう。それでも手入れだけはきちんとされているようで、古びた装飾は磨かれて廊下には埃一つ落ちていなかった。 「どうぞこちらへ」  白檀たちを案内してきた女官が客間の扉を開いて恭しく礼をする。みすぼらしい宮殿には不釣り合いなほどに洗練された所作で、いかにも貴人に仕える上品な婦人という感である。  客間に足を踏み入れた瞬間、ふっと甘い香りが鼻腔を蕩かした。しかし香りの元を目にする前に、白檀は足を折ってその場に膝をついた。官服の長い袖を払って胸の前で手を組み、頭を深く垂れる。 「検非省長官項白檀と申します。こちらは副官の銀英。本日は沈香様に御目通り叶い光栄です。以後どうぞお見知りおきを」  道中考えていた口上をすらすらと述べ、再び拝礼する。斜め後ろで銀英も同じようにしているのが気配で分かった。 「環夫人、どうぞお顔をお上げになって」  身元で囁くような(たお)やかな声が頭上から聞こえた。 (環夫人……? あ、私か)  一拍遅れて頭を上げる。自然、視線が目の前に座る女性に定まった。  四夫人の一人、沈香こと珠晃花(しゅこうか)様。白雪の(はだえ)に朱色の花鈿(かでん)、明るく澄んだ瞳に絹糸の如き黒髪、ふっくらとした頬に柔らかな笑みを浮かべた姿は慈悲深い仙女のようにすら見える。薄紅色の襦裙(じゅくん)の袖から覗く手首は華奢で、全体に抱き締めたら折れてしまいそうな繊細さがある。桃李の宴で一度は姿を望んだことがあるはずだが、この至近距離で見ても一切の瑕がない美姫であった。 (この方が皇帝陛下第一の寵妃……。陛下ってやっぱり周りに美男美女を集めてるんだな)  禁伺長たる夫の容姿を思い浮かべながら、無礼にもしげしげとその美貌を観察していると、 「こちらこそ、御足労いただき恐縮ですわ。どうか楽になさって下さい」  赤い紅を点した小さな唇が動いた。白檀と同年代に見える妃は顔にあどけなさを残してはいるが、その言葉には大人の女性の落ち着きと良識が表れている。 「文でお伝えした件なのですけれど、生憎その侍女が出払ってしまっていて……。ちょうど崑崙(こんろん)山の月餅を取りに尚食局に行ってしまったところなのよ」  沈香は困ったように整った蛾眉(がび)をひそめる。 「銀英、お迎えに上がりなさい」  白檀が斜め後ろに首を回してそう命じると、副官殿は一瞬戸惑った表情を浮かべる。それでも、にこやかに微笑んだまま口を開こうとしない沈香の様子を見てすぐに「はっ」と短く答えた。慌ただしく礼をしたまま銀英が廊下へと姿を消した瞬間――  扉が音を立てて閉まった。春風を吹き入れていた格子窓も外側からぴしゃりと閉ざされる。先ほどまで部屋の隅に控えていたはずの女官が、何人の出入りも許さないという風に扉の向こうに立ち塞がっているのが障子に映った影から分かった。締め切られた部屋の中、白檀と沈香はただ二人向い合って坐っていた。
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