3. 出仕

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「一つ昔話をしましょう。私がこの国に嫁いできた時の話よ」  珠という国は香の北方に位置し、その大きさは香の一州に過ぎないほどである。小さな国の王宮の中で大切に育てられてきた姫君にとって、香から送られてきた使者団の威容はまさに驚異であったという。使者を率いる男の容貌もまた驚きではあったが、すぐにそんな悠長なことを思っている場合ではなくなってしまった。  香国皇帝から下賜された深紅の婚礼衣装の精巧さも、嫁ぎ先へと向かう花轎(かきょう)の壮麗さも、その警護をする武官たちの物々しさも、都の大通りの騒がしさ、そして長い旅路の果てに辿り着いた皇城の厳粛さも、全てが生まれ育った故国とは比べ物にならないほどで、顔も知らない未来の夫、つまりはこれほどまでに豊かで広大な国をいずれ治めることになるであろう皇太子とは一体どのような方なのだろうかと、すっかり気後れしてしまっていた。使節の長に連れられて皇帝陛下のおわします竜涎殿へと向かう道中、彼女は極度の緊張と不安からずっと俯いたままだったという。  その時、突然に目の前を歩く男が歩みを止め、振り返った。何事かと戸惑う姫君の腕をぐいと掴み、涼しげな目を蛇のように細める。背の高い体で相手を見下ろすようにして、男は言った。 「あなたにはどれ程の御覚悟がおありなのですか。陛下が御命じになればこの腕を切り落とせますか、この目を差し出せますか」 (皇帝のお妃様に何してるんだ、あの人⁉)  にこやかに話し続ける沈香を他所に、白檀は血の気が引くような思いである。 「……そ、それで沈香様は……」  震える声でそう問いかけると。 「ええ、とお答えしました。陛下が望まれるのならば何でも差し出しましょう。ですが、腕が無ければ陛下を抱き締めることも、目が無ければ陛下のお顔を拝見することもできないので困ってしまいますね、と」  当時を思い出すかのようにすらすらとそう答えてから、沈香は恥ずかしそうに微笑む。 「恐ろしいと思わなかったわけではありません。それでも、私とてそれだけの覚悟をしてきていたのですよ……実際にお会いしてみたら、陛下はそんな無茶をおっしゃるような方ではなくて、本当に楽しくて心の優しいお方だったのですけれど。私があんまりびくびくしているので、清香君にしてみればこんな女で大丈夫かと心配になって脅してみたくなったのでしょうね。それほどまでに陛下のことを考えていらっしゃる方ならば、きっと、何があっても陛下のことだけは裏切らないだろうとそう思ったのよ」  確信を持った沈香の言葉に、白檀は混乱する。美しく穏やかな色男、合理的で計算高い腹黒男、そして一途で情熱的な忠臣。環芳玉を巡る様々なイメージは容易に一つに収斂させることができなかった。 「――ただいま戻りました」  その時、固く閉ざされていた扉が開いた。腑に落ちないという顔で月餅を手に持った銀英の後ろから、小柄な宮女が姿を現した。例の、相談があると言っていた子だろう。裳の裾をぎゅっと手で握り、何やら怯えたようにきょろきょろと辺りを見渡している。 「紅娘、こちら検非省の項長官です。もう一度あの話を聞かせて」  主人に近くに座るよう手招きされて、紅娘と呼ばれた侍女はおずおずと座布団の上に腰を下ろした。そのままじっと下を向いていたが、突然わっと堰を切ったように泣き出した。 「私、このままだと呪い殺されちゃうかもしれません」 「――は?」  思いがけない言葉に、白檀は礼儀も忘れて思わずそう答えてしまっていた。 「ええっと、呪いというのは?」  話の流れが分からず、白檀は戸惑いながら聞き返す。さめざめと泣いていた少女は主に優しく背中を撫でられて少しは心を落ち着けたのか、時折言葉を詰まらせながらもゆっくりと言葉を紡ぎ出した。 「……昨日の夜、針仕事をしていたらすっかり自室に下がるのが遅くなってしまって、それで廊下を歩いていたら見てしまったんです……あの木々の間を鬼火が横切って行って、その先に、く、首吊りの縄がぶら下っていて……」 「北東、鬼門の方角ですね。確かに、前帝の不興を買った妃が首を吊った場所がその辺りだという話はあります。真夜中にその下を通ると、首に縄が巻き付いて道ずれにされるのだとか」  銀英がすかさず解説を挟む。 「今朝になって渡り廊下のところで紅娘が気を失って倒れているところが見つかって、何があったのかどうにか聞き出したらこういうわけで。他の侍女たちもすっかり怯えてしまって、一応検非省の方にもご報告しておきたかったのだけれど……」  沈香はそう言ってちらとこちらに目配せをした。検非省の方でまともに捜査することはないと言いたいのだろう。妊娠のことで白檀を呼びだすための口実に使ったに過ぎないが、侍女の手前白檀たちに相談しないわけにもいかないというところか。  当たり前だ。幾ら何でも屋のようなものだと言っても自分たちは道士ではないのだから、魂魄や呪をどうこうしろと言われても完全にお手上げである。だが―― 「先ほどのお話ですと鬼火も見えたということですが、鬼火と首吊り鬼には何の関係があるんですか?」  沈黙を破った白檀の言葉の突拍子もなさに、沈香と紅娘は同時にぽかんとした表情を浮かべ、銀英が何を今更というふうに訝しげに答えた。 「ですから、鬼火の正体が首を吊った宮女ということでは」 「でも、さっきの話だと鬼は生者を道連れにしようとしているんでしょう? だったら相手にそうとは気取られないように木の下を通らせる必要があるのに、鬼火なんて出したらこの近くは危険ですよと言っているようなものじゃない?」 「それは……まあ、そうですが……」 「矛盾してると思うんだけど」  「鬼の行動に一々整合性を求めても……」とでも言いたげな顔をしながらもぐぬぬと押し黙る銀英に白檀はさらに質問を重ねる。 「その噂は昔から伝わっているものなの?」 「首吊り鬼の話自体は五年ほど前に私が後宮に来た時にもありましたが、よく聞くようになったのはここ数カ月というところかもしれません」 「もっと細かく」 「……桃李の宴の後でしょうか」  その答えに白檀は自身の仮説への確信を深める。しばらく黙って思案していると、紅娘がおずおずと手を挙げた。 「あの、それで、私はどうすれば良いのでしょうか?」  段々と脱線していっていた話が元に戻った。一般に、呪というものは見る見られるの関係の中で発動するとされることが多い。彼女にとっては、木の下を通っておらずとも鬼火や縄を目にしてしまったという事実だけでも恐怖なのだろう。 「外朝の方に頼めば……」  そう言いかけた銀英を手で押し留める。外朝に所属している道士の相談してみろと言いたいだのだろう。確かに彼らは対呪の専門家ではあるが、この場合むしろ向いているのは、 「この件、検非省でお預かりしましょう」  白檀は紅娘と沈香の方を向いてにっこりと微笑んで応えた。
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