4. 鬼怪

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4. 鬼怪

「長官、正気ですか?」  後ろを少し離れて歩く銀英があからさまに疲れと不満を滲ませた声で問いかけた。 「正気、正気!」  一方、元気に答える白檀の方は足場の悪い道をものともせず、突き出た根や背の低い小藪をざくざくと踏みしめて歩いて行く。  後宮の奥深く、北東の方角に鬱蒼と茂った林の中。南の外朝に近い中心地との華やかさとはうって変わり、後宮の外れは先帝の御代から整備も行き届いていないのかこういった荒林が広がっている。手入れされぬまま放置された林の中は未だ昼だというのに薄暗く、なるほど確かにこの世ならざる存在が飛び出してきそうな雰囲気である。 「……この辺りかな」  紅娘の証言によれば、縄がかかっていたのは一際大きな木だったという。とはいえ足を踏み入れる者がほとんど存在しない林である以上は地図も何も存在しておらず、件の木を探すには足を動かすしかない。 「もっと分かりやすく印が付いてたら良いんだけどなあ」 「鬼火にでも案内してもらえば良いんじゃないですか?」  銀英がぜえぜえと息を切らせながら投げやりに答える。後宮の外れに位置する沈香宮からならばこの林まで四半刻(30分)も歩けば到着するのだが、足場の悪さが彼女の体力を奪っているらしい。若さの割には丁寧でしっかりした所作から鑑みるに、元々良いところのお嬢さんなのだろう。体力仕事には向いていないのか時折木の幹に体を預けて休みをいれつつ、それでも銀英は律儀に森の最奥にまでついて来ていた。 「それも考えたんだけど、昼のうちにちょっと見ておきたいものがあって」  近くにあった木の幹を手でさすり、白檀は目線を上へと走らせる。頭上の遥か上に見える枝に目を凝らし、目当てのものはなかったのかまた別の木へと歩みを進めた。  沈香宮を辞した後、白檀はその足で首吊り鬼の木を見に行くと言い出した。誰もが近寄ろうとしない林に向かおうとする上司に銀英も抵抗したのだが、一度心を決めた白檀は梃でも動かない。一人で行くから付いてこなくても大丈夫だと言い張る白檀に彼女が同行しているのは不審な上司が変な行動を起こさないか見張るのが半分、万が一にも鬼に襲われたり失踪したりしないように護衛するのが半分というところだろう。  木々の天辺に止まっていた黒い影が群れを成して飛び立ち、耳を刺すような烏の鳴き声が林の中に虚しく響いた。毒毒しいまでに朱色の夕陽は既に西へと沈みかけている。 「帰りましょうよ」  痺れを切らしたように銀英が口にする。林の外れの外れまで歩いて来てしまったようで、後宮と外とを区切る高い壁が見えてきた。外部からの侵入と宮女の脱走を防ぐためのその壁はまるで牢獄の囲いのようですらある。そう感じて振り返った瞬間、白檀の目が留まった。無言のままその場に蹲り、地表に目を凝らす。ふかふかとした豊かな土壌の上には乾いた木の皮の破片が幾つか散らばっていた。 (あった)  目当てのものを見つけ、すぐさま視線を木の上へと走らせる。 「これ、持ってて」 「は、え、ちょっと――!」  上衣を脱いで銀英に押し付けるなり、白檀は手頃な枝に足を掛けた。裳が破れないように気を遣いながら、そのままするすると木を登り始める。 「ちょっと、何してるんですか⁉」  下から見れば大分見苦しい恰好になっているだろうが、この際気にしない。庭に生えた桑の実を採っては弟とおやつ代わりに食べていた白檀にとっては木登りもお手の物である。すぐに地上から十尺(360cm)ほど離れた木の枝が目の前に迫って来た。枝の表面には線状の傷が数本走っている。削れた樹皮の隙間からは生白い木部が顔を見せており、どうやら傷がついたのはさほど前のことではないらしい。隣の枝にも同様の傷がついており、この高さの生えている枝は概ね同じような状態のようだ。  ぱっと手を離し、地上に飛び降りる。柔らかな土壌は着地の衝撃を和らげてくれた。手に付いた木屑を払いながら、白檀は銀英へと向かい直った。その手から上衣を受け取り、短く指示を出す。 「二つ頼みたいことがあるんだけど」 「何でしょう?」 「尚食局の方から何か食べるものを持ってきて欲しい」  その言葉に、銀英が微かに顔を曇らせた。しかし、すぐにまた感情の読み取れない涼しい表情に戻る。 「承知いたしました」 「それから、外朝の清香君宛てに書を。当分家には帰れないかもしれませんって」  一瞬怪訝な表情を浮かべた銀英はすぐに何かに思い当たったのか、ひどく嫌そうな顔をした。 「まさか――」 「夜になったら張り込んで、相手が姿を現すまでここで待つ」 「馬鹿なんですか?」  部下からの評価がますます悪化している。 「真夜中ですよ。何かあったらどうするんですか」 「大丈夫、銀英には検非省の方で待機していてもらうから」 「そういう問題じゃないでしょう……」  こめかみに手を当て、銀英が呟く。 「あなたの身が、危険だと言っているんです。もしも鬼が出たら――」 「鬼は出て来ないよ」 「それじゃあ何を……」 「化生の隠れ蓑をまとった、ただの人間」  逢魔が時の薄暗闇の中で、白檀はそう断言して片目をつぶって見せた。
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