4. 鬼怪

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 怪力乱神を語らず、とは孔子も言っている。鬼や霊魂なんてものを相手にするのは不向きだが、相手が人間なら少しは交渉の余地があるだろう。後宮の奥深くの雑木林の陰に陣取り、白檀はじっと誰かが現れるのを待ち続けた。  結果として、その晩は何も起こらなかった。  翌日も、その翌日も、その翌日も。 (いつ来るか読めないからなあ。毎日見張るしかないか)  銀英の手によってすっかり片付けられた検非省の一角で白檀は横に寝転ぶ。省とはいえ検非省に割り当てられたのは各省の並ぶ建物のたった一室なので、実質的には検非室と呼んでも差支えはないのだが。  連日不眠で張り込んでいるため、仮眠を取るために白檀は尚寝局から布団を盗んできていた。明り取りのための丸窓からは暖かな日差しが差し込み、室内を区切る薄布を揺らす。微睡の中にある上司を放って、銀英は一人書類の山に向かって黙々と作業をしていた。白檀が夜毎張り込みを続けていられるのも、それ以外の些事をそつなくこなしてくれている副官殿がいてくれるからこそ。  文机に座る銀英の背筋は尺を仕込んでいるかのように真っ直ぐに伸び、筆を運ぶ度に 高く結った銀の髪がさらさらと揺れる。凛とした後ろ姿には近寄りがたささえ感じるが、その冷たさが冴え冴えとした清廉さを際立たせる。  綺麗な少女だと思う。何より有能だ。直截に物事を言い過ぎるきらいはあるが、何だかんだ文句を言いながらやるべきことはきちんとこなす。他の宮女や妃たちの手前、部下に敬語を使わない方が体裁が良いと提案してきたのも銀英だった。居心地の悪さを覚えないこともないが、職務自体は至って順調に進んでいる。前の職場でも上手くやっていただろうに、なんでまた検非省なんて僻地に追いやられてしまったのだろう。その辺りの人事権は芳玉にあるのだろうし、部下に任命した理由を聞いてみても良いのだが、本人が話してくれないものを上層部で横流しするというのも良い気分はしない。  そんなことをぼんやり考えていると、銀英がこちらを振り返った。じっと観察していたのが見つかってしまったのかと慌てて目線を逸らす。 「清香君からの御文です」 「ありがとう」  手渡された書状に目を走らせる。芳玉には出仕一日目から事の次第をかいつまんで説明してある。芳玉の方でも基本的に放任の姿勢をとっているのか、時折状況確認の文が検非省に届くだけだ。 「ご自宅に帰らなくて良いんですか、新婚なんでしょう?」  再び文机に向かいながら、銀英が突然話しかけてきた。 「いや、まあそうなんだけど、それは別に関係ないというか……」  「新婚」という言葉に気まずさを覚えながら言葉を濁す。契約夫婦とはいえ、家に帰ったら夫がいるというのも何だか気を遣いそうで、最早このまま帰りたくないという気持ちすら白檀にはあるのだが、銀英の方はそうは思っていないようだ。  「どうして、そこまでなさるんですか。沈香様からの依頼とはいえ、私や他の宦官たちにでも命じればそれで済む話です。長官と言ったって、どうせお飾りなんですから」  刺々しい物言いには、どこか諦観が混じっているように聞こえた。こちらからは銀英の表情は窺えない。布団に寝転がって高い天井を見つめたまま、白檀は応える。 「確かに私は清香君の身内だし任命されたばかりだけど、少なくとも検非省を名前だけの部署にするつもりはないよ。私たち二人でどこまでできるか分からないけど、手を抜くつもりもない。私が張り込みしてるのは、私の方が体力に自信があるし、書類仕事はずっと後宮にいて勝手が分かっている銀英に任せた方が良い、適材適所っていうだけ。それに、ここまできたら鬼の正体も気になるしね」  冗談めかして笑うと、「何ですか、それ」と小さく呟く声が聞こえた。常とは違って少し弱々しい声音におやと思っていると、 「今日も行かれるんですか」  僅かな沈黙の後に銀英が問うた。 「うん。夕方になったらまた起こしてね」  そう答え、今度こそ白檀は深い眠りへと落ちていった。
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