4. 鬼怪

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 張り込みも五日目ともなると、だいぶ勝手が分かってくる。初日は些か心細さもあったものの、今は正直ずっと体を屈めていることの方が辛い。  ふと思い出し、白檀は懐で温めていた饅頭を取り出した。銀英に頼んで尚食局から用意してもらったものだ。両手で半分に割ると、中からほかほかと湯気が立ち上った。豚ひき肉と葱がとろりと零れだし、慌てて一口頬張る。油でてらてらになるまで煮詰められた具がほのかに甘い皮に染み込み、口の中いっぱいに広がる。 (わざわざ具入りの包子にしてくれたんだ)  今までは具の入っていない饅頭だったが、今日は少しばかり豪勢になっている。植え込みの陰でもぐもぐと夜食を頬張る姿は、傍から見たらそれこそ怪異だろう。空を見上げると高い木立の中に星が輝いているのが見えた。  懐にしまっていた布端で手を拭き、白檀はそっと体勢を変える。夜も深まり、そろそろ夜半に近い。今日も何も現れないのかと思ったその時、  ちらちらと、微かに揺れる灯が見えた。 (来た!)  息を潜め、白檀は辺りを窺う。黒く聳え立つ木々の間を灯が移動し、徐々にこちらへ近づいてくるのが分かった。紅娘の言っていた「鬼火」だろう。月の薄明りが夜の静寂に溶ける中、微かに耀(かがよ)う光の儚さは亡者の魂に見紛うほどだ。灯の高さは地上から四尺(120cm)ほど。落ち葉を踏みしめる音が聞こえ、灯は白檀のすぐ目の前で止まった。急に灯が下降し、代わって何かがひゅんと空を切る音がする。 「何をしているんですか?」  その瞬間、白檀は木陰から立ち上がった。黒布を被せていた紙燭の灯を音のする方に掲げる。 「……っ!」  全てを見通す眩い光に照らされて立っていたのは、一人の女性だった。  夜空の色よりも少し明るい藍色の襦裙。三つ編みに結った黒髪を下げた面立ちは銀英と同じ年の頃に見えるが、その顔には色濃い恐怖が貼り付いている。宮官から支給される玉佩を腰帯に着けていないところを見ると、女官ではなく妃。それも下級妃だろう。傍らの木の枝には長い縄が引っかかっており、その端に一通の書状を結びつけようとしているところだった。自身の推理が当たっていたことを白檀は瞬時に悟る。 「検非省長官の項白檀です。ここ数カ月現れている鬼火と首吊り鬼の正体はあなたですよね」  白檀の問いかけに、怯えたままの妃は何も答えない。 「いえ、そもそもその噂もあなたが流したものでしょう。怪異への恐怖心を煽ってここに人を近づけないために。首吊り鬼が矛盾した行動をとっている時点で、何らかの人間の思惑が絡んでいるのだろうとは感じていました。宮女たちが見た鬼火はあなたの持つ蝋燭の灯。首吊りの縄も今そこに掛けたものでしょう。  では何故人目を遠ざける必要があったのか。答えは簡単です。ここで何かしらの秘め事を行うため。この場所は外朝に繋がる南門とは逆方向で、監視の目も少なく、外と中を隔てる壁も他よりは脆く低い。調査に来た際にそのことには気づいていました。それから――」  白檀はそこで言葉を区切って身を屈め、掌に地面に落ちていた木屑を乗せた。 「枝が擦れ、木皮が剥がれている部分がありました。この木の枝に縄を投げかけて一端を壁の向こう側に垂らし、相手に引っ張ってもらうことで文や物品の交換を行おうとしたのでしょう。公の手順を踏まずに、何の連絡を取っていたのか知りませんが、その文はこちらで改めさせていただきます」  白檀が有無を言わさぬ態度で手を差し出すと、妃は下を向いて躊躇った後、観念したようにそっと文を差し出した。紙燭を掲げ、白檀は書状を広げる。綺麗に折りたたまれた紙には詩のようなものが書きつけられていた。 「春 尽きんと欲し  日 遅遅たり  牡丹の時  羅幌(らこう) 巻き  翠簾(すいれん) 垂れ  彩牋(さいせん)の書  紅粉の涙  両心 知る    人 在らず  燕 空しく帰る  佳期に(そむ)く  香燼(こうじん) 落ち  枕函(ちんかん) (そばだ)つ  月は分明に  花は澹薄(たんぱく)にして  相思を惹く」 (…………)  春が終わろうとしている。寝台の帳を巻き上げ、窓の簾を垂らし、あなたの文を読んで涙を流す。互いの心は分かっていたはずなのに、あなたは今ここにいない。物思いに眠れぬまま身を寄せると月明かりに牡丹の花が色淡く見え、あなたへの想いは募るばかり……。 (うん、どう見たって恋文だ、これ!)  見ると、妃の方は顔を真っ青にしながら涙目になっている。  白檀の推理はほとんど当たっていた。最後の最後を除いて。  後宮妃が外部と秘密裏に連絡を取り合っている。陰謀蠢く後宮のことだ。内部の事情を諜報したり、外から毒物や武具などを持ち込んだりしているのだろうとばかり思い込んでいて、まさか逢瀬だなんてこれっぽっちも思いもしなかった。 「あ、あの、本当に申し訳ない」  色恋沙汰に疎い白檀とはいえ、流石にいたたまれなくなって恋文を相手に返す。「良い詩ですね、ご自分で考えられたんですか」などと余計なことを口走りそうになった時、 「――お願いです! 私が悪いのです。私が始めたことなのです。私はどのような処罰もお受けいたしますから、ですからどうか、罰するのは私だけに――!」  妃がその場に崩れ落ちた。刺繍の施された薄絹の衣が土にまみれ、髪に挿されていた花簪が地に落ちて固い音を立てる。地面に手と膝を付き、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら妃は何度も何度も白檀に頭を下げた。下級とはいえ皇帝陛下の妃が臣下に行うことではない。嗚咽交じりの訴えの前に白檀も狼狽える。 「どうか落ち着いてください」  妃の肩を支えながらも、白檀の頭は冷静に動いていた。 (妥当なのは冷宮送りってところか)  妃の不義密通が大逆にあたるだろうということは後宮に入ったばかりの白檀にも分かる。皇帝の寵愛を失ったり罪を犯したりした妃が冷宮と呼ばれる場所に送られ、幽閉される運命にあるとは聞いたことがある。もちろん幽閉されるだけで済むはずもなく、その後に処刑されたり、劣悪な環境に命を落としたりする者も多いという。 (このまま警備軍の宦官に引き渡すのが最良の判断なんだろうけど) 「ひとまず、事情を話しては下さいませんか。私はあなたが誰かの差し金で後宮に害を為そうとしているのではないかと思っていただけで、そうでないなら話は別です。何か、お力になれるかもしれません」  涙に濡れる妃の瞳を見つめ、白檀はゆっくりと言葉を紡ぐ。怯え切った表情が少しこちらに意識を向け始めたのが分かった。  状況だけ見れば密通を立証する証拠は揃いすぎるほどに揃っている。しかし、文を交わしただけで罪というのもあまりに性急過ぎる感がある。今ならまだ、白檀一人で対処すれば事を荒立てずに済む。芳玉に命じられた責務は後宮を監視し制御すること。独断と言われればそれまでだが、それくらいの権限は与えられていると解釈する。 「私を信じてくれとは言いませんが、お話を聞かない限り私もどうすることもできません。どうか、お願いします」  妃の瞳が逡巡に揺れる。この選択が自らの生死を分けるのだと自覚しているのだろう。そして白檀もまた、自らの判断に一人の人間の命が懸かっているのだと痛いほどに感じていた。それでも目を逸らさずに、正面から妃の視線を受け止める。 「――分かりました、全てお話しいたします」  乱れた呼吸を無理に整え、暗闇に見えた小さな星の光を掴むように妃は自らの物語を語り始めた。 ―――――― 引用した漢詩は『花間集』所収の欧陽烱「三字令」より
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