4. 鬼怪

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 ――女の名は珀鴻月(はくこうげつ)と言った。珀家は名門貴族というほどではなく、丞相の環家に取り入ってその庇護下に生きのびているような家柄。それでも鴻月は一人娘として深閨に養われ、何人もの使用人に傅かれる生活を送っていた。適齢期になればどこぞの貴公子に嫁がせられることが生まれた時から決まっていた運命。  ところが、親の思惑に反して少女は恋に落ちてしまう。相手は珀家の使用人の青年だった。幼い頃から共に育った青年は体の弱い彼女の唯一の話し相手であり、理解者だった。家を出られない少女の目となり手足となり、青年は鴻月の求める全てを語って聞かせた。都で行われる旅芸人の一座の軽業、市場の屋台で売っている激辛料理の味、百年に一度しか咲かないとされる青い花。自分の体で確かめられない時には、物語を作り上げた。拙い作り話は嘘だと分かっても少女の孤独な心を慰めるのには十分だった。 『わたしも、おやしきのお外に出てみたいわ』  その夜も鴻月は密かに青年を自室に呼び寄せていた。一通り話を語らせてから、ほうっと息を吐きながら呟く。 『旦那様が心配なさいますよ』 『だって……』  少女は膝を抱えて俯く。父が家に寄り着くことはほとんどなく、ごく稀に顔を合わせることがあっても、ああしなさい、こうしなさいとしか言わない。優しい言葉を掛けられた記憶など一度もない。血の繋がらない使用人の青年の方がよほど家族のように思えた。 『分かりました。いつか、俺があなたに外の世界を見せて差し上げましょう』 『――ほんとう⁉』  青年の言葉に、鴻月はぱあっと顔を輝かせる。少女の太陽のような笑顔を前にして、青年も蕩けるように優しい微笑みを浮かべた。 『はい、本当です』 『いつ? いつお外に出る?』  善は急げとばかりに急かす少女に、青年は困ったように言葉を探る。 『今はまだお待ちください。ですが、いつか必ず』  返ってきた答えに少しだけ気落ちするが、今まで青年が言葉を違えたことなどないとすぐに思い直す。 『ええ、やくそくよ』  二人きりの月下の誓いは幼い少女にとってお守りのようなものだった。どれだけ辛くて寂しくても、青年さえ傍にいればそれで良かった。邸で忙しなく働き回るその後ろ姿を令嬢の目が無意識に追いかけ始めるのにさして時間はかからなかった。少女の甘やかな想いは行き場がなくなるまでに溜まり、青年もまた主人を心から愛した。  そしてそのことはすぐに鴻月の父親に知られた。鴻月が15の歳に、青年は国軍の兵役に取られ、邸を後にすることとなったのだ。香国に住む20歳以上の男児には三年の兵役が課せられる。しかし兵役は一定額以上の税を納入したものには免除され、兵に出されるのは主に庶民の子弟に限られる。使用人も主人の所有物である以上兵役を免除されることがほとんどなのだが、何故か青年には適用されなかった。その時点でおかしいと思うべきだったのだ。それでも世間を知らぬ鴻月は純粋に青年との別離を悲しんだ。三年後までどこにも嫁がず待っていると、そう約束して鴻月は青年の姿が見えなくなるまで橋のたもとで柳の枝を振り続けた。  青年が国境の警備中に賊に襲われて命を落としたという報が入ったのはそれから半年も経たない頃だった。 (嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき)  帰って来るって言ったのに。  少女の怒りの矛先は徐々に自身へと向けられていった。自分が親の言う通りに生きなかったから、自分が愛を欲してしまったから、この世で一番大事な人が死んでしまった。  国境からせめてもの形見にと送られてきた遺骨を抱き締めて泣くばかりの娘に父は命じた。 『皇帝陛下は現在病の床に臥せっておいでだ。直に新帝の誕生に伴って後宮が刷新される。お前は後宮に妃として出仕しろと』  恋人を失った少女はこの世の全てを諦めた。いっそ死んでしまいたかったが、周囲の言うことに逆らってはいけないと本能に染み込んでしまっている。そうして、心を失った少女は流されるままに顔も知らぬ皇帝のもとに嫁ぐこととなる。しかし、父親の野望に反し、後宮を統べる陛下の目が一下級妃にまで届くはずもなく、時は無為に過行くまま。  ここまでなら、よくある悲恋物語に過ぎなかった。  運命を変えたのは皮肉にも、この春催された桃李の宴だった。
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