0. 霹靂

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 何も華々しい後宮入りを期待していたわけではない。 (だけどこれは、なかなかきついな)  永遠に続くかと思える長い廊下を前に、白檀は箒を片手に虚空を見つめる。  香国の皇城である伽羅(きゃら)宮は皇帝が日中執務を行う外朝と后妃たちの暮らす後宮とに分かれており、皇帝の妻である后妃が100人以上、宮中の事務・雑務を行う宮女と宦官と呼ばれる男性機能を失った元男たちがそれぞれざっと1000人、合わせて2000人以上の人間が暮らしている。故に後宮といえど一つの街くらいの大きさはあるのだ。そこを毎日宮女たちで手分けして掃除しないといけないのだから、一人あたりの仕事量も膨大なものとなる。  その上ひとえに宮女と言ってもその地位には大きな差がある。香国の官吏には律令の規定に則って正一品から順に官位が授けられるのだが、その制度は後宮の女性たちにも適用される。正一品から正五品までが「内官」と呼ばれる皇帝の后妃であり、正六品以下が「宮官」と呼ばれる後宮内の職務に携わる女官だ。宮官たちは基本的に親の推薦を受けて試験を通過できた令色あるいは才覚に自信のある良家の娘たちであり、尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功の6つの局に配属され、事務仕事や位の高い后妃の世話を行う。だが、市井にあった触書を目にして応募した白檀のような下級宮女には官位など与えられず、掃除や水汲みなどの下働きをするしかない。 (腹減ったな)  心を無にして箒を動かしていたはずだが、慢性的な空腹は如何ともしがたい。しかし、宋薫の受験費用を捻出できるくらいには賃金をもらっているので、ここで怠ける訳にはいかない。近くに置いてあった雑巾を手にして水汲み場まで向かうと、そこでは既に数人の宮女たちが井戸端会議に花を咲かせていた。 「ねえ、沈香(じんこう)様のこと聞いた?」  この愛憎うずまく女の園で出世するための一番の方法。それは誰よりも多く情報を手に入れることだ。幸運なことに白檀の周りには噂話が溢れており、情報源には困らない。 「聞いた聞いた。殿舎を変えられたのでしょう?」 「そう。それも蘭奢待(らんじゃたい)から一番遠い、あのボロ宮殿よ。陛下からの御声掛けもここ数カ月ないと聞くし……」 「それはもう完全に終わりね」  どうやら今白檀が耳にしたのは後宮内での后妃の勢力図であったらしい。「蘭奢待」とは後宮内にある皇帝の私的な御殿のことである。皇帝は毎夜自身の相手を務める后妃を指名し、自身の元へと招き寄せる。そのため、皇帝からの御声掛けの多い寵妃は蘭奢待の近くに、逆にあまり目をかけられていない后妃は遠くへと配置されることになる。  白檀がまだ覚えたばかりの地図を頭に思い浮かべているうちに、宮女たちの話題は早くも他へと移っていた。 「そろそろ桃李の(えん)の準備も始まるわね」 「気が重いわぁ。仕事量が倍以上になるじゃない」 「でも、今年はセイコウクンも出席なさるのでしょう⁉」 「嘘⁉ 本当に? じゃあ私たちもお目に掛かれるかもしれないってこと?」  聞き慣れない名前に白檀は雑巾を絞っていた手を止め、頬を紅潮させてきゃあきゃあとはしゃぐ隣の少女に声をかけた。幸いなことに、今まで自らの力で仕事を得る必要に迫られてきていた白檀は初対面の人間に対しても物怖じすることなく話しかけられる。 「セイコウクンって誰?」 「あなた、知らないの⁉」  少女が信じられない、という風にずいと前のめりになった。 「清らかな香りの君と書いて、清香君。皇帝陛下直属の臣下でいらっしゃる環芳玉(かんほうぎょく)様の尊号よ。まだお若いのに優秀で、それはもうお美しい方なのよ!」  号はともかく、環という苗字は白檀にも聞き覚えがあった。確か代々丞相、つまり宰相を務める有力な貴族家だったはずだ。号は恐らく、「春夜」という詩の「春有月有陰」という節から取ったに違いない。なんとも雅やかな呼び名である。 「桃李の宴では私たちも後宮の外に出られるから、あなたも清香君をお見掛けできるわよ!」  良かったわね! と手を握ってぶんぶんと振られるが、白檀はそこにはあまり興味がない。それよりも、彼女には一つ気に掛かることがあった。  桃李の宴は年に一度、桃の花がほころび、えも言われぬ瑞々しい香りで宮中が満たされる春に盛大に催される。美しく咲き乱れる花の中で、これまた美しき后妃たちが舞や歌などを奉納する一年で最も重要な宮廷行事であるが、いくら神事といったところで結局は女たちがその美と才を競い合う場である。 (何か起こらないほうがおかしいよな)  幸というべきか不幸というべきか、白檀のこの見立てはまた違う意味で見事に的中してしまうのだった。
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