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現行の後宮が誕生してから半年。その間一度も外に出たことのなかった鴻月にとって、桃花舞う内苑の風景も少しは心慰めになっていた。それでも他の妃たちに混じって宴に興じる気分にはなれず、そっと中央舞台を離れた。人気のない庭園の端で、何とはなしに散り行く花弁を指先で追いかける。幼子のような戯れを続けているうちに、一枚の花弁が風に煽られて空高く舞い上がった。その行く先を視線で追い、振り返った瞬間、
花嵐の向こう、持ち上げた指のその先に、
『あ――――』
鴻月はかつての恋人の姿を見つけてしまった。弓を背負って桃李園の警護を行う一人の武官。その横顔は以前よりも痩せて見えたが、決して見紛うはずもなく。
『――お嬢様?』
青年の方も振り返るなり、そう口にした。
もしもを願い続けた仮想を突如目の前に差し出された鴻月が最初に覚えたのは恐れだった。帰ってくるまで待つと言っておきながら、誓いを破ってしまった。事情はあったにしても、このような形で裏切ることになるなんて。皇帝の妃となった今の自分を見て、彼は何と言うだろうか、と。
しかし、青年は驚愕の色の浮かんだ顔をすぐにくしゃりと綻ばせた。
『お元気だったのですね』
兵役に取られた後、青年は国境の警備隊に配属された。賊と交戦することも何度かはあったが、先月無事に三年の任期を終えて奉公先に帰ったところで、鴻月が流行り病で死んだと告げられのだという。行き場を無くした彼は警備隊にいた頃の上官に誘われるまま、宮中の護衛の任に就くことになったのだ。
全ては父の仕業だった。邪魔者を引き離して死んだと偽り、上手く娘を後宮に送り込んだつもりなのだろう。まさか二人が宮中で再会してしまうなど、夢にも思わなかっただろうが。
『……そろそろ巡回の者がこちらに参ります。見咎められれば、お嬢様の御立場が危なくなります』
無事が分かっただけで全て終わりにすべきだったのだろう。それでも、鴻月は己の心の残滓をそうすぐには諦めきれなかった。今彼から離れてしまえば、次に後宮の外に出る機会がいつあるかなど誰にも分からない。逡巡する鴻月に、青年が苦肉の策を持ちかけた。
『後宮の北門付近は警備が手薄だと聞いています。明日の夜、私はそちらに向かいます。壁越しに木に縄を投げかけておきますから、そちらの先に文を結んでおいてください』
文の中で次の密会日を指定しておけば、甚だ頼りない方法ではあるが連絡は途絶えない。桃李の宴以降、ずるずると連絡を続けていたところを首吊り鬼の噂を聞きつけた白檀に見つかってしまったというわけだ。
「ですからどうか、罰するのは私だけに。私が彼を巻き込んだだけで――」
「珀様、あなたはどうされたいのですか?」
鴻月の言葉を遮って白檀が口を挟んだ。
「え?」
「今回の件は私の方で上へ報告しないということは可能です。しかし、今後もこのように連絡を取るのは危険でしょう。また誰が見咎めるか分かりませんので」
「――見逃していただけるのですか?」
「事情は承知しましたから。でも、それでは何も変わりません。本当は、その男性と添い遂げたいのではないですか?」
「それは……」
「出仕を取りやめるということはできないのですか?」
「え?」
白檀の言葉に鴻月は困惑した表情を浮かべる。
「そういうわけには……。一度後宮に入った宮女はよほどの理由がなければ外に出ることはできませんから。病にかかって里下がりということもありますが、実家の方に話がいってしまいます」
あれほど周到な父親が仮病に騙されるということはないだろう。他に後宮を出る方法はないかと白檀は頭を抱える。
「あの、項様は何故私に――」
「そうだ、私は後宮と外朝を行き来するための符を持っていますから、それを使って外朝に出て、そのまま脱走してしまうというのはいかがでしょう」
思い付きを口にした瞬間、
「無理だな」
突如その場に響いた第三者の声に、白檀の心臓は凍り付いた。明らかに聞き覚えのある声だったからだ。
長い黒髪を頭の上で一つに結んだ、目鼻立ちのはっきりとした美女。身に着けた衣は男性ものを思わせる簡素なものだが、上背があるためかそれでも様になる。凛々しいその姿は女性だらけの後宮において、さぞかし女性陣の人気を集めているだろうと思わせる。
白檀と鴻月の密談に突如として割り込んできた人物は、宴の際に目にした華やかな姿とは印象こそ違うものの、間違いなく後宮に君臨する四夫人の一人、麝香その人だった。
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