4. 鬼怪

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「何故、助けて下さるのですか?」  相次ぐ予想外の出来事にほとんど卒倒しそうになっていた鴻月を殿舎へと返し、人気のない後宮の庭園の中で白檀は麝香に問いかけた。青々と茂る新緑が月に照らされ、深い影を投げかける。 「それは君も同じだろう?」  麝香は未だ寝間着にも近い薄着のまま。片手に持った酒瓶を揺らしながら、ぶらぶらと庭園の中を歩き回っている。 「強いて言うなら、面白そうだから。後宮からの脱走なんて、そうお目に掛かれるものじゃないからね」  どこからか取り出した二杯の盃になみなみと酒を注ぎ、そのうちの一つを白檀の方へと差し出した。敵か味方かも分からない相手の盃を受ける訳にもいかず、白檀はじっと麝香の方を見つめたまま。 「納得してないな。あとはそうだ、敵は少ない方が良いだろう? 寵愛戦争から辞退したい妃がいるというなら、喜んで手助けするさ」  茶化したような口調で語られる動機はどれも本心ではないと分かる。気やすい態度とは裏腹に、なかなかどうしてやりづらい相手である。白檀が手を付けようとしないのを見て、麝香は自分のものと合わせて二杯の盃をぐっと呷る。薄手の白磁の盃は芸術品に明るくない白檀の眼からしても名人の手になる高価なものだと分かった。手にした酒も相当に上質なものなのだろう。その味が気にならないと言えば嘘になるが、ここはぐっと堪える。 「君の場合、そういうわけでもないだろう? 見たところ、后妃というわけでもなさそうだが」  そう言われてから初めて、白檀は自分が名乗りをしていないことに気が付いた。いくら突然の登場に動揺していたからといっても、許されない失態である。 「申し遅れましたが、私、検非省長官、項白檀と申します」  白檀が膝を折ってそう名乗った瞬間、盃を運ぶ麝香の手が止まった。それまで浮かべていた、どこか飄々とした表情がふっと掻き消える。しかしそれも一瞬のことで、すぐに片眉を上げて軽くこちらを見やる。 「そうか、あなたが環芳玉の奥方か」 「はい」  どうやら「項白檀」という名はそれなりに宮中に広まっているらしい。しかし、麝香が「環芳玉」と口にした時の響きは一臣下に対するものとするには少しばかり感情的なように思われた。 「やはり今話題の環夫人は愛の守護者というわけか? 引き裂かれた恋人たちを添い遂げさせてあげたいと同情したか?」 「いいえ、私はただ怒っているのです」  思わず、白檀はそう口にしていた。答えた声が閑散とした庭園の中に響く。 「何にと言われると難しいですが、強いて言うならば彼女が今いる運命そのものに。あれでは、あまりに救われません」  皇帝にとってはその他大勢に過ぎない妃でも、彼女にだって感情があり、歩くべき道がある。それがこんなにも容易く踏みにじられていることに何だか無性に腹が立ったのだ。 「そんなこと、ここでは日常茶飯事だ。偶々目に付いた一人を助けても何の意味もないと思うが」 「ええ、その通りです。でもそれは一人を助けない理由にはならない」  自分より高い位置にある麝香の瞳を見つめながら白檀は即座に答えた。 「もとより私の我儘です。私が我慢できないことに私が意地を張って対抗しているだけのことですから」  そう、鴻月は別に自ら後宮を出たいなどと言ったわけではないのだ。彼女は粛々と自らの運命を受け入れていた。密会の罪に脱走未遂の罪まで重ねられては困る。その線引きだけはしておかねばと白檀が言葉を重ねようとした時――  麝香がからからと笑い出した。  呆気にとられる白檀を他所にひとしきり豪快な笑い声を響かせてから、麝香は再びこちらを向いた。その表情に少しだけ遠くを想うような影が差し込んでいることに白檀は気が付かない。 「我儘か、なるほど。いや、分かりやすい」 「それはよろしゅうございました」 「拗ねるな。本当のことだろう? 私も、妃の中でこの後宮を抜け出すものがいるかどうか見てみたいだけだ。それこそ我儘だろうよ」  そう口にして、麝香はにっと笑った。まるで近所のガキ大将のような笑顔だった。 「で、どうするんだ? 策はあるんだろう?」 「策でしたら、一つ。麝香様にも手伝っていただくことになりますが、構いませんか?」  ここまで来たら最早やけである。沈む時はもろともに。 「もちろん構わんとも」  白檀の画策に気付いているのかいないのか、麝香が勢いよく頷いた。
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